現成公案 Genjokoan(Revised edition)


我々をとりまくありとあらゆる存在が、ブッダの説いた真理によって貫かれているこの瞬間、現実としてそこには、迷いがあり、悟りがあり、また、悟りに達しようとする様々な行いがあり、生があり、死があり、そして、悟り目覚めた人がいるかと思えば、いまだ迷いから逃れられない人もいる。

しかし、我々がそんなすべての存在から解き放たれたその瞬間、もはやそこには、迷いもなく、悟りもなく、したがって悟り目覚めた人もいなければ、迷いから逃れられない人もいなくて、そして生もなく、死もないのだ。

とは言うものの、そもそもブッダの説いた道理とは、存在の「有」「無」といった相対的概念を超越したものだから、当然そこには、生もあり、死もあり、また迷いもあり、悟りもあり、そして悟り目覚めた人もいれば、いまだ迷いから逃れられない人もいる。

ところがそんな現実の中で、花は惜しまれながら散りゆき、草は恨まれながら蔓延るのだ。

おのれ自身の側から、この世のすべての存在を見極めること、それは「迷い」だ。この世のすべての存在の側から、おのれ自身を見極めること、それが「悟り」だ。また「迷い」とは何かを理解しているのが悟りへと達する者であり、「悟り」とは何かを理解できずに迷っているのが、この世に生きる多くの者たちなのだ。

そんな彼らの中には、悟りへ達しながらさらに悟りを得る者もいれば、迷いの中でさらに迷い続ける者もいる。実は悟りを得た者は、まさに悟りを得たその瞬間、おのれ自身が悟りを得たと自覚することはないのだ。しかしそれこそが、悟りを得た者の真の姿であり、だからこそ彼らは、悟りを得た後も変わることなく、正しい日々を送り続けるのだ。

心身を集中して形を見て、心身を集中して音を聴くと、そのすべてを見極めたような錯覚におちいることがある。だがそれは鏡に像が映り、水に月が映るようなものではない。物事を一方から見極めようとすると、そこに現れていないもう一方を見失ってしまうものだ。

ブッダの説いた道理を探求するということは、おのれ自身を探求するということだ。おのれ自身を探求するということは、おのれ自身を忘れるということだ。また、おのれ自身を忘れるということは、この世のすべての存在におのれ自身をゆだねるということだ。この世のすべての存在におのれ自身をゆだねるということは、すなわち「自己」「他者」といった存在の概念から解き放たれるということだ。

そして悟りを得た後、その悟りを得たという意識を消し去る。すなわち、意識を消し去ったまま、後の悟りの日々を永々として送り続けるのだ。

人が初めて真理を探求する時、人は真理とは遠く離れた所を彷徨っている。しかし真理が正しく伝わった瞬間、その人はおのれ自身の中に真理を見出している

人が舟に乗って行く時、ふと岸を眺めると、あたかも岸が動いているかのような錯覚におちいることがある。しかし、よく目をこらして舟を見てみると、実際は岸ではなく舟が動いていることに気づくはずだ。このように、おのれ自身の存在というものを正しく認識しないまま、この世のすべての存在を見極めようとすると、あたかもおのれ自身の存在が、永久不変であるかのような錯覚におちいる。しかし、もし日々の正しい行いに身を投じ、その本質に立ち戻れば、この世のすべての存在のごとく、おのれ自身の存在もまた、永久不変ではないことに気づくはずだ。

薪木は燃えて灰になる。しかし灰が薪木に戻ることはない。まずこの大前提を心にとどめ、灰はその後だ、薪木はその前だといった見方をしてはいけない。

理解したまえ。薪木は薪木として歴然として存在しているのだ。そして薪木には確かに、薪木になる前の、薪木になった後のといった形の変化があるが、それぞれが異なった物質として存在しているのだ。また灰も灰として歴然として存在していて、薪木と同じく、灰になる前の、灰になった後のといった形の変化があるが、それぞれが異なった物質として存在しているのである。

このように、薪木が燃えて灰になった後、ふたたび薪木にならないように、人間もまた死んだ後、ふたたび生き返ることはない。これを「生」が転じて「死」に至ったと言わないことが、ブッダが説いた真理の大前提である。したがって、それを「不生」という。そして「死」が転じて「生」に至らないということが、ブッダの真理を説く大前提なのだ。したがってそれを「不滅」という。

「生」も人生におけるひとつの存在であって、「死」もまた人生におけるひとつの存在なのだ。たとえば、それは冬と春のようなものだ。冬が変化したものを春だと思わないように、そして、春の変化したものを夏だとは言わないように。

人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が映るようなものだ。月は水によって濡れることはなく、水は月によって破れることはない。また月の輝きは、広く大きな光ではあるが、わずかな小さな水面にも映る。すなわち、月のすべてが大宇宙もろとも草上の露に映り、さらに一滴の水にも映るのだ。

そして、悟りというものが人に痕跡を残さないこと、それはちょうど月が水を突き破らないようなものだ。また、人が何ものにも妨げられることなく悟りを得られること、それは一滴の露が何ものにも妨げられることなく、天の月を映し出すようなものだ。

「深い」「浅い」というという言葉は、またそのものの程度の「高さ」「低さ」を表しているものだ。そして、とかく修行した時間の「長い」「短い」を持ち出す者がいるように、月の映る水の「大きさ」「小ささ」を問題にする者がいるだろう。しかし、その水に映る月そのものに「広さ」「狭さ」という違いがあるのかどうか、それを正しく理解すべきだ。

また、身心がいまだに真理で満たされていないというのに、あたかもすでに真理で満たされたような錯覚におちいることがある。しかし、身心が真理で満たされれば、おのずと何かが足らないことに気づくはずだ。

たとえば船に乗り、まったく陸地の見えない海に漕ぎ出し、まわりを見渡してみると、海はただひたすら丸く見えるだけで、それ以外の見え方はしない。だが、海は丸いわけでもなく、四角いわけでもない。それは目の前に現れていない、海が海として存在している、その本質が見えていないだけなのだ。ある言い伝えによると、龍魚に海は荘厳な宮殿のように見え、天人に海は光輝く装身具のように見えるという。ようするにただ我々の視界には、海はとりあえず丸く見えているだけのことなのである。

これと同じく、この世のすべての存在もまたしかりだ。俗世間、出世間にかかわらず、この世のすべてのものは様々な様相を呈して存在しているが、我々は自らが体験した経験だけでものを見て、理解しているにすぎないのだ。したがって、この世のすべての存在の本質を見極めるには、四角いとか丸いとか、ただ目に見えていることだけではなく、それ以外の、海が海として存在している、山が山として存在している、はかり知れないほど多くの局面が、この世界にはあるのだということを知るべきだ。それはなにも、身の回りのことだけに限ったことではない。おのれ自身も、また一滴の水も、何ら変わりはないのだということを知るべきだ。

魚は水を泳ぎまわるが、泳いでも水に果てはなく、鳥は空を飛びまわるが、飛んでも空に果てはない。とは言え、魚も鳥も、いまだかつて水を、空を離れたことがない。ただ、大きく泳ぎたい時、大きく飛びたい時は、大きく泳ぎまわり、大きく飛びまわる。また、小さく泳ぎたい時、小さく飛びたい時は、小さく泳ぎまわり、小さく飛びまわる。このようにして、それぞれ限界なく泳ぎまわり、飛びまわり、どこでも隈なく泳ぎまわり、飛びまわる。とは言え、鳥がもし空を離れれば、鳥はたちまちにして死ぬ。また同じく、魚がもし水を離れれば、魚はたちまちにして死ぬ。

魚にとって水がすなわち命だと理解しろ。鳥にとって空がすなわち命だと理解しろ。そして、鳥がすなわち命であり、魚がすなわち命である。あるいは、命がすなわち鳥に違いなく、命がすなわち魚に違いない。このようにして、さらに思考を発展させていくのだ。たとえば、修行と悟りがあること、また人に死と生があることも、このようにして思考を発展させていくのである。

しかし、水とは何かを究め、空とは何かを究めたあと、水を泳ぎ続け、空を飛び続けようとする鳥や魚がいれば、彼らは水にも空にも、歩むべき道を得ることができず、そして、在るべき所を得ることもできない。しかし、この在るべき所を得れば、やがて正しい行いに身を投じることによって、その日々の中に真理は現れる。同じく、この歩むべき道を得れば、やがて正しい行いに身を投じることによって、その日々の中に真理は現れるのだ。この道は、この所は、「大」「小」といった概念を超越し、また「自己」「他者」といった概念も超越している。そしてさらに「過去」「現在」といった概念をも超越しているからこそ、こうして存在しているのだ。

このようにして、人がもしブッダの説いた道理をたどり見極めようとするなら、ひとつの教えを得れば、ひたすらそのひとつの教えと向き合い、ひとつの行いに会えば、ひたすらそのひとつの行いを修めるのだ。そしてそこにこそ、在るべき所があり、歩むべき道が通じているわけだが、それに気付くという瞬間を、本人が気付いたと自覚できないのは、それに気付くことこそがブッダの真理を究め尽くしたことに他ならず、それは共に同じ瞬間に得られるものだからなのだ。

だが、こうして得たことが必ず自己の知見となって、物事を深く理解できるようになるんだなどと勘違いしてはならない。確かに、悟りの瞬間というものはすみやかに現れるものだが、悟りを得たという実感は必ずしも現れるものではなく、どうしてそんなものが実感として現れる必要があるだろうか。

麻浴山宝徹禅師が扇であおいでいたところ、一人の僧がやってきて尋ねた。

「風というものは常に吹き抜けていて、それは所に関係なく吹き抜けているもの。それなのに、どうして和尚はさらに扇を使ってあおぐのですか?」

師は言った。

「お前は、ただ風が常に吹き抜けていることを知っているだけで、まだ、所に関係なく吹き抜けているということの、真の意味を理解していないのだ」

僧は言った。

「では、所に関係なく吹き抜けているということの、真の意味とはいったい何ですか?」

すると師は、何も答えず、ただ扇であおいだ。

僧はそれを見た瞬間、その真の意味に気づかされ、師にむかい深く礼拝した。

ブッダの説いた真理というものの現れ、またそれが正しく伝わるプロセスとはこのようなものだ。風というものが常に吹き抜けているのなら、扇など使う必要はない。また、扇など使わなくても風を感じることができるなどと言う者は、風というものが常に吹き抜けているということの意味も、風というものの本質もまったく理解していないのだ。風というものの本質が、常に吹き抜けているからこそ、ブッダの説いた真理の風は、この大地を黄金色に輝かせ、大河をチーズのように熟成させるのだ。



⬜︎ English translation



While all beings surrounding us are led by Buddha’s truth, in fact there are confusion, enlightenment, a variety of practices to reach enlightenment, birth and death. And while there are enlightened people, there are people who still can’t be rid of confusion.

However, the moment we are free from all such things in this world, there will be no confusion and enlightenment anymore, so there will be no enlightened people and people who still can’t be rid of confusion, and no birth and death.

Having said that, however, as Buddha’s principles are beyond relative concepts such as bigness or smallness of objects and existence or no existence of things, there are birth, death, confusion, enlightenment, enlightened people and people who still can’t be rid of confusion. However, in such a reality, blossoms fall, being missed, and weeds spread, being blamed.

Judging all beings in this world from your perspectives will lead to confusion. And judging yourself from the perspective of all beings in this world will lead to enlightenment. In addition, those who understand what confusion is can reach enlightenment, and those who are confused without understanding what enlightenment is are most people living in this world. Some can get further enlightenment after reaching enlightenment and others continue to get more confused in their confusion.

Enlightened people are not aware that they are enlightened at the very moment of their enlightenment. But that is exactly what enlightened people are like, and that is why they continue to live their righteous lives, unchanged, even after they attained enlightenment.

When you focus your mind and body on a form, and when you focus your body and mind on a sound, you may have the illusion that you have discerned all of it, but it is not like seeing an image reflected in a mirror or the moon in water. If you try to judge things from one side, you will lose sight of the other side that is not showing up there.

To search for the Buddha's truth is to search for oneself. To explore oneself is to forget oneself. To forget oneself is to surrender oneself to all beings in the world. To surrender oneself to all beings in the world means to be free from the concept of "self" and "others.” Then, after attaining enlightenment, he or she erases his or her awareness of that enlightenment. In other words, they must erase their awareness that they have reached enlightenment, and then continue to live in a perpetual state of enlightenment.

When one first searches for truth, one is wandering far from the truth. However, the moment the truth is conveyed correctly, the person has found the truth within himself.

When a person travels on a boat and looks at the shore, he or she may be under the illusion that the shore is moving. However, if the person carefully stares at the boat, he or she will realize that the boat is actually moving, not the shore. If you try to discern the existence of all beings in the world without properly recognizing your own existence, you will fall into the illusion that your own existence is eternal and unchanging. However, if you lead a righteous life and return to its essence, you will realize that your own existence, like all beings in this world, is not eternal and unchanging.

Firewood burns to ashes. But the ashes don’t return to the firewood. Keep this basic premise in your mind and don’t look at the ashes as something that comes after and the firewood as something that comes before. You should understand this. Firewood exists as firewood. And wood certainly has a form before becoming firewood and a form after becoming firewood. However, they are not the same, and each exists as a different substance. Ashes also exist as ashes, and just like wood, they exist as different substances, with some changing before becoming ashes and some changing after becoming ashes.

Thus, just as firewood doesn’t become firewood again after it has burned to ashes, human beings don’t come back to life again after they die. The basic premise of the Buddha's truth is not to say that "life" has turned into "death. This is called "un-arising.” And it is the basic premise of the Buddha's truth that "death" never turns into "life". Therefore, it is called "immortality.” “Life” is a part of life, and “death” is also a part of life. For example, it is like winter and spring. Just as we do not think that what winter has changed into is spring, we do not say that what spring has changed into is summer.

A human’s attaining enlightenment is like the reflection of the moon in water. The moon is not wetted by water, and water is not broken by the moon. And the moon's radiance is reflected even on a small surface of water, although it is a broad and big light. In other words, everything about the moon is reflected in the dew on the grass, including the macrocosm, and even in a drop of water. And that enlightenment leaves no trace on a person, just as the moon does not pierce the water. And that one can attain enlightenment unhindered by anything is like a drop of dew reflecting the heavenly moon unhindered by anything.

The words "deep" and "shallow" are also expressions of "high" and "low" degrees of something. And just as there are those who often bring up the "long" or "short" length of time one has practiced Buddhism, there are those who may question the "size" or "smallness" of the water in which the moon is reflected. However, we should correctly understand whether there is a difference between the "size" and "smallness" of the moon itself reflected in that water.

Sometimes we have the illusion that our bodies and minds are already filled with the truth, when they haven’t been. However, when our body and mind are filled with the truth, we will naturally realize that something is missing. For example, when you get on a boat and row out to the sea, where you cannot see any land at all, and look around you, the sea just looks round and round, but you cannot see anything else. But the sea is neither round nor square, and that is because it does not appear before our eyes, and we do not see its true nature, which exists as the sea. According to a Buddhist parable, to a dragon fish, the sea looks like a majestic palace, and to a celestial being, the sea looks like shining jewelry. In other words, to our eyes, the sea appears to be round for the time being.

The same is true for everything that exists in the world. Everything that exists in the world exists in various forms whether they are sacred or secular, but we see and understand things only through the experiences we have learned and experienced. Therefore, in order to discern the true nature of everything in this world, we should know that there are not only what we can see, such as squares and circles, but also other aspects of the world, such as oceans existing as oceans, mountains existing as mountains, and so on, and that there are immeasurably more aspects in this world. This is not limited to our immediate surroundings. You should know that you and a drop of water are no different.

A fish swims in the water, but the water has no end; a bird flies around in the sky, but the sky has no end. Yet, neither fish nor birds have ever left the water or the sky. When they need to swim widely and fly widely, they swim widely and fly widely. And when they need to swim a little and fly a little, they swim a little and fly a little. In this way, each swims and flies without care, each swims and flies without limit, but if a bird leaves the sky, it will die immediately, and likewise, if a fish leaves the water, it will die immediately.

Understand that for a fish, water is as important as its life. Understand that for a bird, the sky is as important as its life. So, the bird is its life, and the fish is its life. Or the life must be the bird, and the life must be the fish. In this way, you should further develop your thinking. For example, there are practices and enlightenment, and there are death and life in humans—you should develop your thinking in this way.


However, if any bird or fish continues to swim or fly through the water and through the sky, after having mastered what water is and having mastered what the sky is, they will not be able to obtain the path they should take in the water or in the sky, nor will they be able to obtain the place where they should be. But if they gain this place to be, the truth will eventually appear in their righteous days. Likewise, if we obtain this path to walk, the truth will eventually appear in its righteous days. This path or this place, transcends concepts such as "big" and "small," as well as "self" and "others.” It also transcends concepts such as "past" and "present," which is why it exists in this way.

In this way, if one wants to follow the path of the Buddha and find the truth, one must face that teaching intensely when one obtains a teaching, and one must cultivate a practice intensely when one sees the practice. Therein lies the place to be and the path to follow, but the reason we cannot realize this when we are not yet aware of it, is that to realize it is to master the truth of the Buddha, and both of these are obtained at the same moment.

However, one should not make the mistake of thinking that what one gains in this way will always become one's knowledge and enable one to understand things correctly. It is true that the moment of enlightenment appears quickly, but the realization of having attained enlightenment does not necessarily appear, so why need it to appear as an actual feeling?

When Mayokuzan Hotetsu, a Zen master was fanning himself with a fan, a monk came to him and asked,

“The wind is always blowing, and it is blowing in all directions, regardless of where it is. But why do you use a fan to fan yourself even more?”

The master answered,

“You just know the wind is always blowing, but you don’t understand the true meaning of its blowing in all directions, regardless of where it is.”

The monk asked,

“Then, what’s the meaning of its blowing in all directions, regardless of where it is?”

But the master didn’t answer him, and he just fanned himself with the fan.


As soon as the monk saw it, he realized the true meaning and bowed deeply in the master’s direction.

The manifestation of the Buddha's truth and the process of its proper conveying are like this. If the wind is always blowing, don't use a fan. Also, those who say that they can feel the wind without using a fan don’t understand the meaning of the constant blowing of the wind, nor do they understand the true nature of the wind at all. Because the essence of wind is always blowing through, the wind of the truth that Buddha preached makes this earth glow golden and the great rivers ripen like cheese.



⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos



Embora todos os seres que nos cercam sejam guiados pela verdade de Buda, na verdade há confusão, iluminação, uma variedade de práticas para alcançar a iluminação, o nascimento e a morte.  E embora existam pessoas iluminadas, existem pessoas que ainda não conseguem se livrar da confusão.


No entanto, no momento em que estivermos livres de todas essas coisas neste mundo, não haverá mais confusão e iluminação, então não haverá mais pessoas iluminadas e pessoas que ainda não podem se livrar da confusão, nem nascimento e morte.


Dito isto, no entanto, como os princípios de Buda estão além de conceitos relativos, como grandeza ou pequenez de objetos e existência ou não existência de coisas, existem nascimento, morte, confusão, iluminação, pessoas iluminadas e pessoas que ainda não conseguem se livrar da confusão.  No entanto, em tal realidade, as flores caem, sendo perdidas, e as ervas daninhas se espalham, sendo culpadas.


Julgar todos os seres neste mundo a partir de suas perspectivas levará à confusão.  E julgar a si mesmo da perspectiva de todos os seres deste mundo levará à iluminação.  Além disso, aqueles que entendem o que é confusão podem alcançar a iluminação, e aqueles que estão confusos sem entender o que é iluminação são a maioria das pessoas que vivem neste mundo.  Alguns podem obter mais iluminação depois de alcançar a iluminação e outros continuam a ficar mais confusos em sua confusão.


Pessoas iluminadas não estão cientes de que são iluminadas no exato momento de sua iluminação.  Mas é exatamente assim que as pessoas iluminadas são, e é por isso que elas continuam a viver suas vidas retas, inalteradas, mesmo depois de atingirem a iluminação.


Quando você foca sua mente e corpo em uma forma, e quando você foca seu corpo e mente em um som, você pode ter a ilusão de ter discernido tudo, mas não é como ver uma imagem refletida em um espelho ou a  lua na água.  Se você tentar julgar as coisas por um lado, perderá de vista o outro lado que não está aparecendo ali.


Buscar a verdade do Buda é buscar a si mesmo.  Buscar a si mesmo é esquecer-se de si mesmo.  Esquecer-se de si mesmo é entregar-se a todos os seres do mundo.  Entregar-se a todos os seres do mundo significa estar livre do conceito de “eu” e dos “outros”.  Então, depois de atingir a iluminação, ele ou ela apaga sua consciência dessa iluminação, ou seja, deve apagar sua consciência de que alcançou a iluminação e, então, continuar a viver em um estado perpétuo de iluminação.


Quando alguém procura pela verdade pela primeira vez, está vagando longe da verdade.  No entanto, no momento em que a verdade é transmitida corretamente, a pessoa encontra a verdade dentro de si.


Quando uma pessoa viaja em um barco e olha para a praia, ela pode ter a ilusão de que a praia está se movendo.  No entanto, se a pessoa olhar atentamente para o barco, ela perceberá que o barco está realmente se movendo, não a costa.  Se você tentar discernir a existência de todos os seres do mundo sem reconhecer adequadamente sua própria existência, cairá na ilusão de que sua própria existência é eterna e imutável.  No entanto, se você levar uma vida justa e retornar à sua essência, perceberá que sua própria existência, como todos os seres deste mundo, não é eterna e imutável.


Lenha queima em cinzas.  Mas as cinzas não voltam para a lenha.  Tenha em mente essa premissa básica e não veja as cinzas como algo que vem depois e a lenha como algo que vem antes.  Você deve entender isso.  A lenha existe como lenha.  E a madeira certamente tem uma forma antes de se tornar lenha e uma forma depois de se tornar lenha.  No entanto, eles não são os mesmos, e cada um existe como uma substância diferente.  As cinzas também existem como cinzas e, assim como a madeira, existem como substâncias diferentes, algumas mudando antes de se tornarem cinzas e outras mudando depois de se tornarem cinzas.


Assim, assim como a lenha não volta a ser lenha depois de queimada até as cinzas, os seres humanos não voltam à vida depois que morrem.  A premissa básica da verdade do Buda não é dizer que a "vida" se transformou em "morte". Isso é chamado de "não-surgimento".  E é a premissa básica da verdade do Buda que a "morte" nunca se transforma em "vida".  Portanto, é chamado de "imortalidade".  "Vida" faz parte da vida, e "morte" também faz parte da vida. Por exemplo, é como o inverno e a primavera. Assim como não pensamos que aquilo que o inverno se transformou em primavera, não dizemos que  o que a primavera se transformou em verão.


A obtenção da iluminação por um ser humano é como o reflexo da lua na água.  A lua não é molhada pela água e a água não é quebrada pela lua.  E o brilho da lua se reflete até mesmo em uma pequena superfície de água, embora seja uma luz ampla e grande.  Em outras palavras, tudo sobre a lua se reflete no orvalho na grama, incluindo o macrocosmo e até mesmo em uma gota d'água.  E essa iluminação não deixa rastros em uma pessoa, assim como a lua não perfura a água.  E que alguém pode atingir a iluminação sem ser impedido por nada é como uma gota de orvalho refletindo a lua celestial sem impedimento por qualquer coisa.


As palavras "profundo" e "raso" também são expressões de graus "altos" e "baixos" de alguma coisa.  E assim como há aqueles que frequentemente mencionam o "longo" ou "curto" período de tempo em que alguém praticou o budismo, há aqueles que podem questionar o "tamanho" ou "pequenez" da água na qual a lua se reflete.  No entanto, devemos entender corretamente se existe uma diferença entre o "tamanho" e a "pequenez" da própria lua refletida naquela água.


Às vezes temos a ilusão de que nossos corpos e mentes já estão cheios da verdade, quando não estão.  No entanto, quando nosso corpo e nossa mente estiverem cheios da verdade, perceberemos naturalmente que algo está faltando.  Por exemplo, quando você entra em um barco e rema em direção ao mar, onde não consegue ver nenhuma terra, e olha ao seu redor, o mar apenas parece girar e girar, mas você não consegue ver mais nada.  Mas o mar não é redondo nem quadrado, e isso porque não aparece diante de nossos olhos e não vemos sua verdadeira natureza, que existe como o mar.  De acordo com uma parábola budista, para um peixe dragão, o mar parece um palácio majestoso, e para um ser celestial, o mar parece uma joia brilhante.  Ou seja, aos nossos olhos, o mar parece redondo por enquanto.


O mesmo vale para tudo o que existe no mundo.  Tudo o que existe no mundo existe em várias formas, sejam sagradas ou seculares, mas vemos e entendemos as coisas apenas por meio das experiências que aprendemos e vivenciamos.  Portanto, para discernir a verdadeira natureza de tudo neste mundo, devemos saber que não existem apenas o que podemos ver, como quadrados e círculos, mas também outros aspectos do mundo, como oceanos existindo como oceanos, montanhas  existindo como montanhas, e assim por diante, e que existem imensuravelmente mais aspectos neste mundo.  Isso não se limita ao nosso entorno imediato.  Você deve saber que você e uma gota de água não são diferentes.


Um peixe nada na água, mas a água não tem fim;  um pássaro voa no céu, mas o céu não tem fim.  No entanto, nem peixes nem pássaros jamais deixaram a água ou o céu.  Quando precisam nadar e voar amplamente, nadam e voam amplamente.  E quando precisam nadar um pouco e voar um pouco, nadam um pouco e voam um pouco.  Desta forma, cada um nada e voa sem cuidado, cada um nada e voa sem limites, mas se um pássaro sair do céu, morrerá imediatamente, e da mesma forma, se um peixe sair da água, morrerá imediatamente.


Entenda que para um peixe a água é tão importante quanto a sua vida.  Entenda que para um pássaro o céu é tão importante quanto sua vida.  Assim, o pássaro é sua vida e o peixe é sua vida.  Ou a vida deve ser o pássaro e a vida deve ser o peixe.  Desta forma, você deve desenvolver ainda mais o seu pensamento.  Por exemplo, há práticas e iluminação, e há morte e vida nos humanos — você deve desenvolver seu pensamento dessa maneira.


Porém, se algum pássaro ou peixe continuar a nadar ou voar pela água e pelo céu, depois de ter dominado o que é a água e dominado o que é o céu, não conseguirá obter o caminho que deveria tomar na água ou  no céu, nem conseguirão obter o lugar onde deveriam estar.  Mas se eles ganharem esse lugar para estar, a verdade acabará aparecendo em seus dias de retidão.  Da mesma forma, se conseguirmos trilhar esse caminho, a verdade acabará aparecendo em seus dias justos.  Este caminho ou este lugar transcende conceitos como "grande" e "pequeno", bem como "eu" e "outros".  Também transcende conceitos como "passado" e "presente", e é por isso que existe dessa maneira.


Desta forma, se alguém deseja seguir o caminho do Buda e encontrar a verdade, deve enfrentar esse ensinamento intensamente quando obtém um ensinamento, e deve cultivar uma prática intensamente quando vê a prática.  Aí está o lugar a ser e o caminho a seguir, mas a razão pela qual não podemos perceber isso quando ainda não estamos conscientes disso, é que perceber isso é dominar a verdade do Buda, e ambos são obtidos no  mesmo momento.


No entanto, não se deve cometer o erro de pensar que o que se ganha dessa maneira sempre se tornará seu conhecimento e o capacitará a entender as coisas corretamente.  É verdade que o momento da iluminação aparece rapidamente, mas a percepção de ter atingido a iluminação não aparece necessariamente, então por que precisa que apareça como um sentimento real?


 Quando Mayokuzan Hotetsu, um mestre zen estava se abanando com um leque, um monge veio até ele e perguntou:

 “O vento está sempre soprando e sopra em todas as direções, independentemente de onde esteja.  Mas por que você usa um leque para se abanar ainda mais?”

O mestre respondeu:

“Você apenas sabe que o vento está sempre soprando, mas não entende o verdadeiro significado de ele soprar em todas as direções, independentemente de onde esteja.”

O monge perguntou:

“Então, qual é o significado de soprar em todas as direções, independentemente de onde esteja?”

Mas o mestre não respondeu e ele apenas se abanou com o leque.

Assim que o monge viu, percebeu o verdadeiro significado e curvou-se profundamente na direção do mestre.


A manifestação da verdade do Buda e o processo de sua transmissão adequada são assim.  Se o vento estiver sempre soprando, não use ventilador.  Além disso, aqueles que dizem que podem sentir o vento sem usar um ventilador não entendem o significado do sopro constante do vento, nem entendem a verdadeira natureza do vento.  Porque a essência do vento está sempre soprando, o vento da verdade que Buda pregou faz esta terra brilhar em ouro e os grandes rios amadurecem como queijo.



[追記]



「現成公案」は、大著『正法眼蔵』の華々しき巻頭を飾る名著だ。これが書かれたのは道元が中国から帰国してまだ間もない1233年、道元33歳の中秋のことだった。したがってこの「現成公案」には、若き道元の溌剌とした思索がほとばしっている。


しかしこの『正法眼蔵』という大著は、古来、難解なるものの最たるものとして語り継がれてきた。そして、これまで先人たちが行ってきた数多くの現代語訳もまた、どれもみな難解な『正法眼蔵』に相応しい極めて難解な現代語訳ばかりだった。そこで、今この現代を生きている我々にも読める「現代」の現代語訳を目指した。


まず、訳すにあたって心がけたのは、可能な限り極力、仏教用語を使わないこと。先人たちが行った数多くの現代語訳は、それを読む者はすでに仏教用語を熟知しているといった立ち位置で訳されている。これがまず現代語訳を難解にし、現代語訳でありながら現代人が「読めない」理由の一つとなってる。しかし幸いにも、僕は仏教思想に精通していない。だから僕は先人たちのように、言葉の背景にある広大な仏教思想をその言葉に織り込み訳すというスタイルをとらなかった。たとえば「水」という言葉を訳す時は、「酸素とともに、この地球上に生存しているひとつの生命体としての我々人間の生命の維持に必要不可欠で極めて重要な、元素記号H₂oの水素と酸素の化合物の無色透明の液体である水」などとは訳さないで、単純にただ「水」と訳すことを心がけた。


つぎに、道元も所詮ひとりの人間として間違える、ということを念頭におき訳した。だから僕は『正法眼蔵』を、キリスト教の『聖書』のように、一言一句がみな神聖なる言葉で、一言一句がすべて正しいなどと思わないで訳すことにつとめた。ひとりの僧がいくら偉大であったとしても、長大な著述を一言一句まったく間違えず、すべて正しく著述しつくすなどといったことは現実的に不可能だ。


それに残念なことに、この「現成公案」の道元直筆の原本は残っていない。したがって、後世の誰かが書写し、それをまた別の誰かが書写し、今日まで伝わったのだ。この「書写」という作業は実にあやふやなもので、書写する際に誤写することもあっただろうし、またその書写する人の意思で別の言葉に書き換えられたりした可能性もある。ようするに大なり小なり、どこかに間違いが潜んでいるのかもしれない。そしてその間違いを間違いだと思わず、そこにきっと何か深い意味が込められているに違いないなどと思い込み、いたずらに深読みしすぎることが、またこの『正法眼蔵』を難解にしてしまう可能性も少なからずあるんじゃないか?と思った。


そして、この「現成公案」は、かなり美文で書かれている。それがまたこれを難解にしている。自分の思いを確実に誰かに伝えるのなら、誰にでも分かりやすい文体で書きあらわすべきだ。しかし道元があえてそうしなかったのは、高級貴族の出身である彼の生まれ持ったインテリ性だろう。とりあえず、美的表現を目指すあまりやたらと出て来る、時としてかなり無理な対句やレトリックは、かえって彼が本当に伝えたかったことを伝えきれなくしている可能性もある。


とは言うものの、僕がこの現代語訳を行うにあたって最も重要視したのは、原文に忠実であることだった。それが、これまで行われてきた多くの現代語訳に欠けていたことだ。これまで多くの高名な僧侶や博学な学者たちが現代語訳を行ってきたが、彼らは、彼ら自身が持っている道元に関するその豊富な知識をもとに様々な解釈を行い、そこに込められているだろうと思われる思想を自由に飛躍させながら現代語訳を行ってきた。その結果として多くの場合、明らかに道元が書いた原文とはかけ離れた内容の現代語訳になっていた。


僕は高名な僧侶でもなく、博学な学者でもない。したがって僕は、道元の「思想」を伝える立場にはない。だから僕は「思想」ではなく、道元の「言葉」を伝えることに終始した。そもそも「思想」は、「言葉」を読んだ読者自身が感じ取ればいいことだ。と僕は個人的にそう思っている。


とにかく僕はこの「現成公案」を、偉大なる思想書としてではなく、ひとつの文学作品として訳した。しかしだ。この若き道元の書き残した「現成公案」を、ただ単純に字義通りに読んでみると、全編にわたり繰り返し繰り返し、彼がとてもシンプルなことを伝えようとしていたことが分かる。そしてそれは、実は彼が生涯持ち続けることになる重要なテーマだったのだ。


⬜︎ English translation


Genjokoan that adorned the beginning of Shobogenzo, the True Dhama-eye Treasury Volume, a masterpiece was a great book written by Dogen. It was written in 1233, shortly after Dogen's returned from China, in the autumn of his 33rd year. Therefore, this "Genjokoan" is filled with youthful Dogen's vigorous contemplation.

However, this masterpiece called Shobogenzo has been passed down since ancient times. And the numerous modern translations that have been done by our predecessors have also been extremely difficult ones that are appropriate for the difficult "Shobogenzo.” So, I aimed to create a "modern" translation into contemporary language that can be read by those of us living in the modern age.

First of all, in translating the text, I tried to avoid using Buddhist terminology as much as possible. Many modern translations by our predecessors have been done from the standpoint that the reader is already familiar with Buddhist terminology. This is one of the reasons why the modern translations are difficult to understand and "unreadable" even though they are modern translations.

Next, I translated it with the understanding that Dogen made mistakes as a human being after all. Therefore, I tried to translate "Shobogenzo", as if it were not the Christian "Bible," without thinking that every word of the book is sacred and every word is correct. No matter how great a monk may be, it is practically impossible for him to write a long work without making a single mistake word for word, and to do so correctly.

In addition, unfortunately, the original manuscript of the "Genjokoan" in Dogen's own hand has not survived. Therefore, someone in later generations copied it, and someone else copied it again, and it has been handed down to the present day. The process of "transcribing" is very inaccurate, and it is possible that some of the words were transcribed incorrectly, or that some of them were replaced with other words by the transcriber. In short, there may be mistakes in some parts of the text to some extent. And if we do not consider these mistakes to be mistakes, and instead assume that there must be some deep meaning in them, and read too much into them, there are not a few possibilities that this "Shobogenzo" will become more difficult to understand. That’s what I thought.

And the "Genjokoan" is written in quite a beautiful style. This also makes it difficult to understand it. If you want to convey your thoughts to someone without fail, you should write in a style that is easy for anyone to understand. However, Dogen did not dare to do so, probably because of his intellectual nature as a native of a high-class aristocratic family. Anyway, the quite forced couplets and rhetoric that often appear so much in the pursuit of aesthetic expression may make it impossible to convey what he really wanted to convey.

However, the most important aspect of my translation I focused on was to be faithful to the original text. This is something that has been lacking in many of the modern translations that have been done. Many famous monks and erudite scholars have translated the text into modern Japanese, but they have done so while making various interpretations based on their own abundant knowledge of Dogen and freely making leaps in the ideas they thought might be contained in the text. The result in many cases was a modern translation that was obviously far from the original text written by Dogen.

However, fortunately, I am not familiar with Dogen's thought. Therefore, unlike our predecessors, I did not search for the vast thought behind the words, weave it into the words and translate them. For example, when I translated the word "water," I tried to translate it simply as "water," not as "water, a colorless liquid compound of hydrogen and oxygen with the element symbol H₂O, which, along with oxygen, is essential and extremely important for sustaining our life as a living organism on this earth.

I am neither a famous monk nor an erudite scholar. So, I am not in a position to convey Dogen's "thought.” Therefore, I simply tried to convey Dogen's "words" rather than Dogen's "thought.” However, when I simply translated the young Dogen's "Genjokoan," as he wrote it, I could see he was trying to convey very simple things over and over again throughout the entire book. And in fact, it was an important theme that he kept carrying with him throughout his life.



⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos



Genjokoan que adornava o início de Shobogenzo, o Volume do Tesouro do Verdadeiro Dhama-eye, uma obra-prima foi um grande livro escrito por Dogen. Foi escrito em 1233, logo após o retorno de Dogen da China, no outono de seu 33º ano. Portanto, este "Genjokoan" é preenchido com a contemplação vigorosa do jovem Dogen.


No entanto, esta obra-prima chamada Shobogenzo foi transmitida desde os tempos antigos. E as numerosas traduções modernas que foram feitas por nossos predecessores também foram extremamente difíceis e apropriadas para o difícil "Shobogenzo". Assim, pretendi criar uma tradução "moderna" para uma linguagem contemporânea que pudesse ser lida por aqueles de nós que vivem na era moderna.


Em primeiro lugar, ao traduzir o texto, tentei evitar ao máximo o uso da terminologia budista. Muitas traduções modernas feitas por nossos predecessores foram feitas do ponto de vista de que o leitor já está familiarizado com a terminologia budista. Esta é uma das razões pelas quais as traduções modernas são difíceis de entender e "ilegíveis", embora sejam traduções modernas.


Em seguida, traduzi com o entendimento de que Dogen cometeu erros como ser humano, afinal. Portanto, tentei traduzir "Shobogenzo", como se não fosse a "Bíblia" cristã, sem pensar que cada palavra do livro é sagrada e cada palavra é correta. Não importa quão grande seja um monge, é praticamente impossível para ele escrever uma longa obra sem cometer um único erro palavra por palavra, e fazê-lo corretamente.


Além disso, infelizmente, o manuscrito original do "Genjokoan" escrito pelo próprio Dogen não sobreviveu. Portanto, alguém nas gerações posteriores o copiou, e alguém o copiou novamente, e foi transmitido até os dias atuais. O processo de "transcrever" é muito impreciso, e é possível que algumas das palavras tenham sido transcritas incorretamente ou que algumas delas tenham sido substituídas por outras palavras pelo transcritor. Em suma, pode haver erros em algumas partes do texto até certo ponto. E se não considerarmos esses erros como erros e, em vez disso, presumirmos que deve haver algum significado profundo neles e lermos muito neles, não há poucas possibilidades de que esse "Shobogenzo" se torne mais difícil de entender. Isso foi o que eu pensei.


E o "Genjokoan" está escrito em um estilo bastante bonito. Isso também dificulta a compreensão. Se você deseja transmitir seus pensamentos a alguém sem falta, deve escrever em um estilo que seja fácil para qualquer pessoa entender. No entanto, Dogen não se atreveu a fazê-lo, provavelmente por causa de sua natureza intelectual como nativo de uma família aristocrática de alta classe. De qualquer forma, os dísticos e a retórica bastante forçados que tantas vezes aparecem tanto na busca da expressão estética podem impossibilitar a transmissão do que ele realmente queria transmitir.


No entanto, o aspecto mais importante da minha tradução em que foquei foi ser fiel ao texto original. Isso é algo que tem faltado em muitas das traduções modernas que foram feitas. Muitos monges famosos e estudiosos eruditos traduziram o texto para o japonês moderno, mas o fizeram fazendo várias interpretações com base em seu próprio conhecimento abundante de Dogen e dando saltos livres nas ideias que pensaram que poderiam estar contidas no texto. O resultado, em muitos casos, foi uma tradução moderna obviamente distante do texto original escrito por Dogen.


No entanto, felizmente, não estou familiarizado com o pensamento de Dogen. Portanto, ao contrário de nossos predecessores, não procurei o vasto pensamento por trás das palavras, não o entrelacei nas palavras e as traduzi. Por exemplo, quando traduzi a palavra "água", tentei traduzi-la simplesmente como "água", não como "água, um composto líquido incolor de hidrogênio e oxigênio com o símbolo do elemento H₂O, que, junto com o oxigênio, é essencial e extremamente importante para sustentar nossa vida como um organismo vivo nesta terra.


Não sou um monge famoso nem um estudioso erudito. Portanto, não estou em posição de transmitir o "pensamento" de Dogen. Portanto, eu simplesmente tentei transmitir as “palavras” de Dogen em vez do “pensamento” de Dogen. No entanto, quando simplesmente traduzi o "Genjokoan" do jovem Dogen, como ele o escreveu, pude ver que ele estava tentando transmitir coisas muito simples repetidas vezes ao longo de todo o livro. E, de fato, foi um tema importante que ele carregou consigo ao longo de sua vida.



洗浄 Senjo

 

仏教の偉大なる先人たちが守り大切にしてきた修行がある。すなわちそれは汚れに染まらないことだ。


南巌山観音院の大慧禅師に慧能が問いかけた。

「真理に到達した後、さらに修行する必要があるのか?ないのか?」

大慧は言う。

「修行。それが必要ではなくなることなどない。だが汚れに染まれば、ただちに真理は得られなくなる」

慧能は言った。

「そう、ただひたすら汚れに染まらないこと、それこそが仏教の覚者たちが心にとどめ守り続けてきたことだ。あなたもまたそうであり、わたしもまたそうだ。そして、インドの偉大なる先人たちもまたそうだった」


『大比丘三千威儀経』にこんなことが書かれている。

「清浄な肉体、それは大便と小便を洗い流し、10本の指の爪を切ることだ」

こうすることによって、肉体も精神も汚れに染まることはないのだが、さらに、清浄な肉体にする方法、清浄な精神にする方法がある。それは、ただ肉体と精神を清めるだけではなく、それによって国土を清め、樹下の修行の場をも清めるのだ。


国土はいまだかつて塵に汚れたことはないが、「清める」という行いは仏教の覚者たちが守り念じ続けてきたことだ。それは真理に到達した後も怠ることなく、また絶えることもなかった。その教義の意味するところは、はかり知れないほど偉大なものだ。


作法、これこそが教義の根幹であり、真理への道程、それこそが作法である。


『華厳経』の「浄行品」にこんなことが書かれている。

「大便を小便を排泄する時まさに祈れ。すべての人々が、汚れを流し清め、淫らな心、怒りの心、愚かな心を起すことのないようにと。また、排泄し終え水を汲む時まさに祈れ。すべての人々が、最上の道を歩み、正しい世界へと導かれる教えが得られるようにと。そして、水で汚れを流す時まさに祈れ。すべての人々が、汚れることのない強い意志を持ち、汚れのない清らかな境地へ達するようにと」


水は必ずしも本来清浄ではなく、本来不浄でもない。肉体もまた必ずしも本来清浄ではなく、本来不浄でもない。万物もまたしかりだ。そして水は強いて言えば生命体でも非生命体でもなく、肉体もまた強いて言えば生命体でも非生命体でもない。万物もまたしかりだ。ブッダの説とは、このようなものだ。


とは言うものの、これはただ水で肉体を清めることではない。ブッダの教えに従いブッダの教えを守り伝える、そのためにこの作法があり、この作法を「洗浄」と呼ぶ。すなわちブッダの肉体と精神のすべてを我が身に正しく伝えることであり、それはブッダの一言一句を身を持って見聞きすることであって、ブッダの光輝く叡智を確かに護り伝えることなのだ。


そもそもこれが、はかり知れないほど大いなる成果をもたらすのだ。肉体と精神にこの修行の形が整ったまさにその瞬間、すなわち永久不変の真理を得るための行いが完全に備わるのである。したがってそこに修行の肉体と精神の本質が現れるのだ。


まず10本の指の爪を切れ。10本の指というのは、左右両手の指の爪のことだ。もちろん足の指の爪も同じく切れ。


経典にこう書かれている。爪の長さがもし麦ひと粒ほどになれば罪に値すると。だから爪を長くするな。爪を長くする者、それは自ずから正しい信仰を持たない愚か者たちの後を追っていることにほかならない。だからこそ爪を切れ。


それなのに、今、中国の僧の中には、ブッダの教えを学ぶ素養も備わっていない連中が、おおぜい爪を長くしている。ある者は3cm、6cm。また9cm、12cmと長い者までいる。これは教えに反くことだ。あきらかにブッダの説いた教えの肉体と精神ではない。これはブッダの教えの継承者としての研鑽を怠った結果このようなことになってしまったのだ。正しい道を極めた優れた僧であれば、そのようなことはない。


また髪を長くしている連中がいる。これも教えに反くことだ。大国の僧が行っていることだからといって、ブッダの教えにしたがった正しい行いだなどと誤解するな。


我が師である高僧は強い戒めの言葉を、世の中の僧の、髪を伸ばし爪を伸ばしている連中にこのように示した。


「髪を剃ることを理解しない者、それは俗人でもなく、それはもちろん僧でもなく、すなわちそれは人間ですらない。古来、仏教の偉大なる先人たちの中で、髪を剃らなかった者は誰もいなかった。今、髪を剃ることを理解しない者、それはまさにもはや人間ですらない」


このように我が師が人々に示したところ、長年、頭を剃っていなかった連中も、頭を剃ることが多くなった。師は、ある時は法堂に上った際に、ある時は説法をする際に、指をうるさく鳴らし、このように叱っていたのだ。


「まさにお前たちは、それがどういう道理によるものなのかも知らず、でたらめに髪を伸ばし爪を伸ばしていたのだ。哀れむべきだ。この世界に生を受け身を置きながら道理から外れてしまっていたことを。それは、ここ200年300年、ブッダの教えが廃れてしまったからこのような連中が多くなったのだ。そんな奴らが、寺の住職となり、師の位を得たなどと公言し、さも人々を教え導くかのようなか顔をしている。これはこの世にとって不幸なことだ。今この世の寺院に、ブッダの教えを研鑽する心を持つ者はまさに誰ひとりとしてない。またブッダの教えを辿り真理を得た者もまさに耐えて久しく、ただいるのはもうゴロツキだけだ」


このように我が師が広く人々に説くと、あちこちの軽率もに己のことを「長老」などと名乗っていた連中は、我が師を恨むことも、また言い訳をすることもできなかった。


知るべきだ。髪を長く伸ばすことはブッダが戒めたことであって、爪を長く伸ばすことは正しい信仰を持たない愚か者のやることだ。ブッダの法を継承する者は、このような教えに反くことを好むな。肉体と精神は清らかにしておかなくてはいけないのだ。だから爪を切り、髪を剃るのである。


大便と小便を洗い流すことをおこたるな。ブッダの弟子である舎利佛は、この作法で正しい信仰を持たない愚か者たちを屈服させたことがあった。それは正しい信仰を持たない愚か者たちが期待したことではなく、また舎利佛が意図したことでもなかったが、ブッダの説いた正しい立ち居振る舞いが目の前に現れると、悪しき教えはおのずから打ち伏されてしまうものなのだ。


樹の下や空の下で修行していた時には、排泄するための建物はなかった。そういう時はとりあえず渓谷の水や河川の水などと、小分けにした土を使って大便と小便を洗い清めるのだ。土を使うのは灰がないからで、それは通常14個の丸めた土を使う。


その14個の丸めた土を使う作法は、まず衣を脱ぎ畳んで置いた後、黒くない黄色の土を手に取り、ひとつの大きさが大きな大豆ほどに丸め、石の上に、あるいはとりあえず適当なところに7個を1列に置き、14個を2列に並べておく。その後、手を磨くための石を用意する。


そして、排便する。排便した後は箆を使い、または紙を使って大便をぬぐう。その後、水辺に行って洗い清める。まず最初に3個の土の玉を使って洗い清めるのだ。土の玉を1個掌に取り、水を少しだけ加え土と混ぜ合わせて溶き、泥より薄い、重湯くらいにして、まずそれで小便で汚れた所を洗い清める。つぎにまた土の玉1個を使い、先ほどと同様にして今度は大便で汚れた所を洗い清める。そして3個目の土の玉1個を使って、先ほどと同様にして簡単に手を洗うのだ。


僧が寺に住むようになってからは、排泄するための建物を建てた。その建物を「東司」と呼ぶ。古くは「圊」といい、また「厠」ということもあった。僧の起居する所には必ずあるべき建物だ。


東司に行く作法は、まず必ず「手巾」と呼ばれる細長い布を携える。その手巾を携える作法は、手巾を2つに折り、左肘の上あたりの、衣の袖の上に掛けるのだ。


こうして東司に着いたら、竿に手巾を掛けろ。竿に手巾を掛ける作法は、肘に掛けたのと同じだ。もし「九条」「七条」などの大きな袈裟を身に着けていたなら、それを手巾に並べて掛けろ。落ちないようにちゃんと並べろ。いい加減に投げ掛けるな。


そしてしっかりと印を記憶しろ。印を記憶するというのは、竿には字が書いてある。または白い紙に字を書いて、それを満月のように輪にして竿につけ並べてある。このようになっているから、どの印の位置に自分の衣を掛けたのかを忘れず間違えないようにすること、それが印を記憶するということだ。僧がおおぜい来た時は、自分と他人の竿の位置を乱すな。


この間、他の僧が来て立ち並ぶことになれば、手を組み一礼しろ。一礼する場合、必ずしもお互い向かい合って頭を下げるのではなく、ただ組んだ手を胸の前におき軽く意思を伝える程度の一礼をするのだ。東司の中では、たとえ衣を着ていなくても、僧に会えば一礼し意思を伝えるべきだ。


もしまだ両手が排泄物に触れていなくて、両手に何も持っていない時は、両手を組んで一礼しろ。だが、もしすでに片手が排泄物に触れていたり、片手に何か持っている時は、片手で一礼しろ。片手で一礼する場合は、掌を上に向け、指先を少し曲げ水をすくうようにして、頭を少し下げ軽く一礼するのだ。相手がこのようにすれば、自分もそのようにすべきだ。また自分がこのようにすれば、相手もまたそうするだろう。


次に「褊衫」や「直裰」などの衣を脱ぎ、手巾の横に掛けろ。その作法は、まず衣を脱ぎ、両袖を背後で合わせ、両袖の脇を合わせて引き上げれば両袖がかさなる。この時、左手は衣の襟の後ろを持ち、右手で衣の脇を引き上げれば、両袖の袂と両襟がかさなるのだ。そして両袖と両襟をかさね、さらに真ん中から縦に2つ折りにして、衣の襟の方を竿の向こう側に投げ掛ける。すると衣の裾と袖口は竿のこちら側に掛かる。ようするに、ちょうど衣の腰のあたりが竿に掛かるのだ。


そして、竿に掛けてあった手巾の両端を交差させ、それを衣の向こう側から手前へまわし、手巾のかかっていないこちら側で交差させて結び止める。2回3回とまわし、しっかりと交差させて結べば、衣を竿から落としてしまうようなことはなくなるのだ。そこで衣に向かって合掌する。


次に襷を取って両臂に掛けろ。そして洗い場に行き手桶に水を入れ、それを右手に提げ便所にむかう。手桶に水を入れる作法は、まず手桶いっぱいに水を入れるな。9割りを限度とする。


便所の扉の前に着けば、そこで履物を履き替えろ。そこにある蒲で編んだ草履を履き、自分の履物は扉の前で脱ぐのだ。これを「換鞋」という。


『禅苑清規』にこんなことが書かれている。

「東司に行きたくなれば、まさに必ず余裕を持って行くべきだ。便意をもよおし我慢できなくなっていい加減なことをするな。つまり、袈裟はちゃんとたたみ、たたんだ袈裟は寮内の机の上に置き、あるいは東司内の竿の上に掛けろ」


便所の中に入ったら、左手で扉を閉める。次に、手桶の水を少しだけ便器に注げ。手桶は目の前の然るべき所に置け。そして、立ったまま便器に向かって指を3度ならせ。指をならす時、左手は握って左腰につけておくのだ。こうして下着を下ろし、着物の裾を捲り上げ、扉の方に向かい、両足で便器の両側を踏み、しゃがんで排便する。


便器の両側を汚すな。便器の前後に排泄物を飛び散らかすな。この間、口を閉じたまま黙っているのだ。壁を隔てて話したり笑ったり、大声で歌うな。鼻水や唾を垂らして汚すな。力んで唸るな。壁に落書きをするな。箆で地面に絵を描くな。


こうして排便した後は、必ず箆を使って大便をぬぐえ。また紙を使う作法もある。その場合、紙屑を使ってはいけない。字を書いた紙を使ってはいけない。未使用のきれいな箆と、使用済の汚れた箆はちゃんと区別しておけ。


箆は長さ24㎝に作り先を三角にする。幅は手の親指ほどだ。それには漆を塗ったものもあり、漆を塗っていないものもある。使用済の汚れた箆は箆入に投げ入れておけ。未使用のきれいな箆は箆棚に置いてあり、箆棚は便器の前の板壁の辺りにある。


箆を使い、また紙を使って大便をぬぐった後に洗い清める作法は、まず右手に手桶を持ち、左手をじゅうぶんに濡らした後、左手を水をすくうような形にして水を受け、まず小便で汚れた所を洗い清める。それを3度繰り返せ。次に、同様にして、今度は大便で汚れた所を洗い清める。洗い清めるには定められた作法通りに行い清潔にしろ。この間、乱暴に手桶を傾け水を手の外にこぼしたり、手から溢れさせたりして水を早くなくすな。


大便と小便で汚れた所を洗い清めたら、手桶を然るべき所に置き、次に箆を取り、それを使って洗った所の水気をぬぐい乾かす。もしくは紙を使え。大便と小便の両所を丁寧にぬぐって乾かせ。


こうして右手で下着を上げ、着物の裾を整え、右手に手桶をさげ扉を開けて出る。ちなみにここで、蒲で編んだ草履を脱ぎ自分の履物をはく。そして洗い場に戻り、手桶を元の場所に置く。


ここで手を洗え。右手に灰用の匙を取り、まず灰をすくい瓦石の上にのせ、右手で数滴の水を加え、それで汚物に触れた左手を洗う。瓦石にあてて研ぐようにして洗うのだ。例えば錆びた刀を砥石にあてて研ぐように。このようにして、灰で3度繰り返し洗え。次に土を瓦石の上にのせ、水を加え洗うこと、これも3度繰り返せ。


次に、右手にサイカチの実の粉を取り桶の水に浸し、両手を合わせて揉むようにして洗う。腕のすみずみにいたるまでよく洗うのだ。心を込めて丁寧に洗え。灰で3度、土で3度、サイカチの実の粉で1度だ。合わせて一通り7度を基本とする。


その後、大きな水桶で手を洗う。この時、洗顔料や土、灰などは使わず、ただ水だけで、または湯だけで洗うのだ。まず1度水で洗い、その洗い終わった水を小さな桶にうつし、さらに新しい水を入れて両手を洗え。


『華厳経』にこんなことが書かれている。

「水を使って手を洗う時まさに祈れ。すべての人々が、気高く妙なる手を得て、ブッダの教えを守り続けられるようにと」


水を汲む柄杓を取る時は、必ず右手で取れ。この間、桶や柄杓の音を立て騒がしくするな。水を散らしたり、サイカチの実の粉を散らすな。洗い場の辺りを濡らしたり、軽はずみにいい加減なことをするな。乱暴なことをするな。


次に、共用の手巾で手を拭く。あるいは自分の手巾で手を拭け。手を拭き終われば、竿のある場所、自分が掛けた衣の前に行き、襷を外し竿に掛けろ。そして、合掌した後、衣を結わえた手巾をとき、衣を着る。


こうして、手巾を左肘に掛け、香を塗る。共用の香があり、それは香木を削り瓶の形に作ってある。その大きさは親指大で、長さは指4本分に作ってある。細い30㎝以上ある紐を使って、香の両端に穴を開け通してあり、これが竿に掛けてある。両手を合わせてこれを揉み合わすと、その香気が自然と両手に移るのだ。


ちなみに襷を竿に掛ける時は、他の襷と同じ所にかさねて掛け、襷と襷を乱しからませるな。


このようにするのはすべてこれ、ブッダの教えに満たされたこの大地を正しく清めることであり、ブッダの教えに満たされたこの世界を美しく彩ることなのだ。きめ細やかくやれ。いい加減にやるな。急いで終わらせて帰ろうなどと思いながらやるな。心の中で、偉大なる先人の「東司に至って仏法を説かず」という言葉の真意を深く考えろ。


他の僧が来たら、東司に入る彼らの顔を無闇に凝視するな。


便所の中での洗浄には、冷たい水を最良とする。熱湯は腸の病気を引き起こすと言われている。手を洗うのに温かい湯を使うことは問題ない。東司に釜をいくつか置くのは、湯を沸かし手を洗うためだ。『禅苑清規』にこんなことが書かれている。

「夕刻以降は、湯を沸かし、灯明の油を補充し、常に湯と水を絶やすことのないようにして、修行僧を動揺させないようにしろ」

だから分かだろう。湯と水はともに使うのだ。


もし便所の中を排泄物で汚してしまったら、扉を閉め汚れていることを知らせる札を掛けろ。もしあやまって便槽に手桶を落としてしまったら、扉を閉め手桶を落としたことを知らせる札を掛けろ。これらの札の掛かった便所には入るな。


もし自分が先に便所に入っていて、他の人が扉の外で指を鳴らし合図をしたら、なるべく早く出ろ。


『禅苑清規』にこんなことが書かれている。

「もし排泄をして洗い清めなかったら、僧堂の中に坐ることも、またブッダとその教え、そして僧に対して礼拝することも許されない。また他人の礼拝を受けることも許されない」

さらに『大比丘三千威儀経』にはこんなことが書かれている。

「もし大便と小便を洗わなかったら、それは戒律を破った罪になる。また僧の敷物の上に坐ったり、またブッダとその教え、そして僧に対して礼拝することも許されない。たとえ礼拝したとしてもそれは何の意味もない」


したがって、すなわちブッダの修行を探究する道場において、この定めを第一に考えろ。まさにこれなくして、どうしてブッダとその教え、そして僧に対して礼拝することができるだろうか?どうして人から礼拝を受けることができるだろうか?どうして人を礼拝できるだろうか?


仏教の偉大なる先人たちの道場には、必ずこの作法があった。また仏教の偉大なる先人たちの道場で修行していた者は、必ずこの作法を身につけていた。


これは、自身が強いて行うのではない。作法が自ずと行われるのだ。それが仏教の覚者たちの慣行であり、それが仏教の覚者たちの日常なのだ。これはただこの世界の覚者たちだけに限られたことではない。これは全宇宙の作法であり、目覚めた者の世界、迷える者の世界、すべての世界の作法なのだ。


だが、知識の乏しい連中は思い誤っている。仏教の覚者に便所の作法などないと。そしてそもそも、我々が生きている迷える世界の覚者たちの作法が、浄められた目覚めた世界の覚者たちの作法と同じはずがないと、そう思っている。これは、まさにブッダの教えを学んでいないのだ。


知るべきだ。「清」と「汚」は、ちょうど人の体から滴り落ちる血のようなものだ。ある時は温かく、ある時は冷たい。したがって仏教の覚者には便所というものがある、そう理解しろ。


『十誦律』の第14にこんなことが書かれている。

「羅睺羅という少年僧がブッダの便所でひと晩寝てしまった。ブッダは朝起きてそれを知ると、右手で羅睺羅の頭を撫で、この詩を説いて聞かせた。お前が頭を剃ったのは貧しさのためではない。お前が頭を剃ったのは財産と地位をなくしたためではない。お前が頭を剃ったのはただ真理を求めるためなのだ。世俗を離れ、こうして僧となったお前は、必ず苦に耐えるのだ」


したがって、すなわちブッダの真理を探究する道場には便所がある。そしてブッダの説いた、便所の中で真理を探究するための作法、それが「洗浄」なのだ。まさに偉大なる先人たちが脈々と伝えてきたからこそ、このブッダの説いた作法が今もなおこうして残るのだ。これは古人の遺徳を慕う慶ばしいことであり、まさにこれはかけがえのない大いなる出会いなのだ。


言うに及ばず、恐れ多くもブッダが便所の中で羅睺羅のために説法したのだ。すなわち便所はブッダが説法をするひとつの場所なのだ。この便所という道場での一挙手一投足、それはすべてブッダが正しく導き伝えたことなのである。


『摩訶僧祇律』の第34にこんなことが書かれている。

「便所は東に建て、北に建てるな。あるいわ南に建て、西に建てろ。小便用の便所もまた同じだ」

この慣例に従え。これはインドの多くの寺院の配置であり、ブッダ存命の頃の建て方なのだ。


知るべきだ。これはブッダひとりの作法ではない。ブッダとその過去に現れた覚者、すなわち偉大なる7人の覚者たちの道場の建て方であり、寺院の建て方である。そしてまたこれは、その後の多くの仏教の覚者たちの道場の建て方であり、寺院の建て方なのだ。ブッダが始めたことではなく、すなわちこれは仏教の覚者の作法なのだ。


これをちゃんと理解しないまま、先に寺院を建てブッダの教えを参究しても 誤りが多く、ブッダの説いた作法も身に付かず、したがってブッダの真理もいつまでたっても現前しないのだ。もし道場を建て、寺院を開こうとするなら、ブッダが正しく導き伝えた作法に従うべきだ。


これはブッダから正しく伝えられたことだからこそ、それによってもたらされる大いなる結果ははかり知れないほど積み重ねられていくのだ。だがこれは、ブッダの正統な継承者でなければ、ブッダの説く肉体と精神というものがどういうものなのか理解できない。そして。ブッダの説く肉体と精神というものがどういうものなのか理解できなければ、僧として行うべきこともまた明らかにならないのだ。


今、偉大なる釈迦牟尼仏の説いた教えが、あまねく全宇宙に伝わっているということは、ブッダの肉体と精神が現前しているということだ。ブッダの肉体と精神が現前するまさにその瞬間とは、こういうことなのだ。



⬜︎ English translation


There is a practice that great Buddhist predecessors have kept and passed down. That is never being stained by dirt.


Huineng asked Dahui at Nangenzan Kannonin, 

“Do I have to continue doing practices after reaching the truth?”

Dahui answered.

“Practices — they will never be unnecessary. However, once you are stained by dirt, you won’t reach the truth immediately.”

Huineng said,

“That’s right. Just never being stained by dirt. That’s what enlightened Buddhists have kept in mind. You have done so, and I have done so, too. And great Buddhist predecessors in India did so.”


This is written in Obiku Three Thousand Rules of Conduct.

“A clean body ― you can get that by washing away your feces and urine and clipping 10 nails of your fingers.”

By doing so, your body and soul won’t be stained by dirt. In addition, there is a way to make your body and soul clean. That is to purify your national land and the place of practicing as well as your body and soul.


Our national land has never been stained by dust, but the conduct of “purifying” has been kept and hoped by enlightened Buddhists. That has never been neglected even after reaching the truth or never been ceased. What the doctrine means is extremely great.


Manners are the essential part of the doctrine, and the processes to the truth are manners.


These are written in Jingxing ping, Kegon-kyo Sutra.

“When you defecate or urinate, you should pray. Pray that all the people will wash away dirt, and won’t have a filthy mind, angry mind, or foolish mind. In addition, when you finish defecating or urinating and collect water, you should just pray. Pray that all the people will take the best way, and get the teaching to be led to the right world. And when you wash away dirt with water, you should just pray. Pray that all the people will have a strong will that can’t be stained by dirt, and reach clean immaculate ground.”


Water is not necessarily clean or unclean. Our bodies are not necessarily clean or unclean, either. So is not everything. What’s more, water is not a living thing or non-living thing. Our body is not a living thing or non-living thing. So is not everything. Buddha’s teachings are like this.


Having said that, however, this doesn’t mean just purifying your body using water. This manner exists so that we can follow Buddha’s teachings, and keep them and pass them down, and this manner is called “Senjo” That is to tell ourselves everything of Buddha’s body and soul correctly, which means that we see and listen to every word of Buddha to surely keep the brilliant wisdom of Buddha and pass it down to the next generation.


In the first place, doing this brings extremely great results. The moment this practice is incorporated into your body and soul, you will completely have things to do in order to get the eternal truth. Therefore, the nature of practicing your body and soul will emerge there.


First, clip 10 nails of your fingers. 10 nails of your fingers mean the nails of your both hands. Of course, you should also clip the nails of your toes.


This is written in the Sutra. If the length of your nail becomes as long as the length of a grain of wheat, you will be sinful. So, you should not grow your nails. Those who grow their nails are just following the fool who don’t have a right faith for themselves. So, you should clip your nails.


However, there are many Chinese monks who are not qualified to learn Buddha’s teachings grow their nails. Some monks have long nails of 3cm, 6cm, 9cm, or 12cm. This is against Buddha’s teachings. Obviously, this is not an ideal body and soul in Buddha’s teachings. This was the result brought by neglecting training as a successor of Buddha’s teachings. This would never happen to excellent monks who have gone through the right way.


In addition, there are some people who grow their hair. This is also against Buddha’s teachings. Don’t take it as a right conduct following Buddha’s teachings just because monks of a big country are doing this.


The Buddhist saint who is my master showed strong admonishing words to monks who grow their hair and nails like this.


 “Those who don’t understand the meaning of shaving their head are not laymen or monks or even human. In ancient times, there were no people who didn’t shave their head among great Buddhist predecessors. Today, those who don’t understand the meaning of shaving their head are no more human.”


After my master showed this to people, those who hadn’t shaved their head for long years often shaved their head. When the master entered a lecture hall or preached, he scolded them like this, snapping his fingers.


 “You guys have mistakenly grown your hair and nails without knowing the conduct has what reason. You should feel sorry that your conduct has been contrary to reason, though you came into this world and put yourself in it. The number of these people has increased because Buddha’s teachings have been obsolete for the last 200 years or 300 years. Those people became a temple master, and publicly claim that they got a degree of master, and pretend that they can enlighten people. This is misfortune for this world. There is no one who has a mind to train Buddha’s teachings in temples in this world. In addition, those who followed Buddha’s teachings and reached the truth have been extinct for a long time, and there are just crooks.”


When my master broadly preached like this, those who had imprudently called themselves an “elder” couldn’t resent my master or make excuses.


You should know this. Buddha admonished people against growing hair, and growing nails is the thing the fool who don’t have faith do. Those who inherit Buddha’s teachings should not be inclined to be against the teachings. You have to purify your body and soul. So, you should clip your nails and shave your head.


Don’t neglect to wash away your feces and urine. Sariputta, Buddha’s disciple defeated the fool who don’t have a right faith about this manner. It was not what the fool who don’t have a right faith expected or what Sariputta intended, but if the right behavior is shown in front of us, a wrong teaching is defeated by itself.


When people were practicing under trees or under the sky, there were no buildings that can be used for their defecating. At that time, they washed away their feces and urine by using water from a stream in a valley or in a river and subdivided earth. They used the earth because they didn’t have ashes. They usually used 14 balls of rounded earth.


The manner of using 14 balls of rounded earth is as follows. First, after taking off your robe and folding it, take the yellow earth (not blackish one), and round it into a size of a big soy bean, and place 7 balls in a line on a stone or a certain place and 14 balls in 2 lines. Then, prepare a stone to polish your hands.


And then, you defecate. After defecating, you remove feces using a shaft or paper. Then, you go to a waterside, and purify yourself. First, purify yourself, using 3 balls of the earth. Take an earth ball on your palm, add a little water, mix it with the earth, and make it thinner than mud like thin rice gruel. Then, wash the part stained by urine using the ball. Next, take another earth ball and wash the part stained by feces as you did earlier. And then, wash your hands simply, using the third earth ball as you did earlier.


After monks came to live in temples, they prepared a building for defecating. The building used for defecating was called “Tosu”. In old days, they were called “Qing” or “Cè”. It’s a building that should be certainly at places where monks live.


The manner of going to Tosu is that you prepare a long and thin cloth called a “Shukin” first. The manner of preparing Shukin is that you fold it in half, and hang it on the sleeves of a robe, hanging over the left elbow part.


When you get to Tosu, hang Shukin on a rod. The manner of hanging Shukin on a rod is the same as the way you hang it on the elbow. If you are wearing a big robe such as Kujo and Shichijo, you should hang it next to the Shukin. Hang it on a rod so that it won’t fall down. Don’t hang it on carelessly.


And remember the mark well. Characters are written on a rod. Or pieces of white paper on which characters are written are looped and aligned on a rod. So, you should try not to forget which position you hanged your robe on and not to make a mistake. That’s why you need to remember the mark. If many monks visit your temple, don’t mistake your position for other people’s position.


If monks come and stand in a row, you should join hands and make a bow. When you make a bow, you don’t have to make a deep bow, seeing each other. You should just show your intention lightly, placing your joined hands. When you are in Tosu and see a monk, you should show your intention, even if you are not wearing a robe.


If your both hands haven’t touched your excretion yet and you don’t have anything in your both hands, you should join hands and make a bow. However, if your hand has already touched your excretion or you have something in your hand, you should make a bow using a hand. When you make a bow using a hand, you should turn your palm upward, and bend your fingertips a little like scooping water, and make a light bow. If the other person does this, you should do so, too. And if you do this, the other person will do so, too.


Next, take off a robe such as “Henzan” and “Jikitotsu”, and hang it on next to the Shukin. The manner is that you should take off a robe first, and put the sleeves together on the back, and pull the sleeves up, putting the sides together to put the both sleeves together. When you have the back of the collar with your left hand and pull up the sides of the robe with your right hand, the both hems and both collars will come together. Then, put the both sleeves and both collars together, and fold them in half lengthwise, and throw the collar side over the rod. Then, the hem and cuffs of a robe will come to your side. In short, the hip part of the robe will be hanged on the rod.


And cross the both ends of the Shukin on the rod, bring them from the other side of the robe to your side, and tie them, crossing them on your side. If you bring them from the other side of the robe to your side twice or three times, and tie them, crossing them well on your side, the robe won’t fall down from the rod. And then, you should join your hands and pray toward the robe.


Next, take a sash and tuck up your sleeves with it. And go to a washing place, put water in a pail and go to the toilet, having the pail with your right hand. The manner of putting water in a pail is you should not put too much water in a pail. Put water in it up to 90%.


When you get to the front of the door of the toilet, you should change your shoes to Japanese sandals. Put on the Japanese sandals made of sweet flags, and take off your shoes in front of the door. This is called “Kanai”.


This is written in Zennen Shingi. 

“If you want to go to Tosu, you should go there with time to spare. Don’t act carelessly, even if you have an urge to defecate and can’t stand it. In other words, you should fold your robe and the folded robe should be put on a desk in a hall or hang it on a rod in Tosu.”


When you are in a toilet, close the door with your left hand. Next, pour a little water in a pail on the toilet bowl. You should put the pail at an appropriate place in front of you. Then, you should snap your fingers three times, standing up. When you snap your fingers, you should clasp your left hand and put it on your left hip. Then, pull down your underwear, pull up the hem of your kimono, stamp on the both sides of the toilet bowl with your both feet, and defecate, crouching down.


Don’t stain the both sides of the toilet bowl. Don’t splash your excretion on the front and back of the toilet bowl. When you defecate, you should keep silent, keeping your mouth closed. Don’t talk, laugh, or sing in a loud voice through a wall. Don’t stain the toilet bowl with a runny nose or spit. Don’t give a grunt when you strain to defecate. Don’t scribble on a wall. Don’t draw a picture on the ground with a shaft.


After defecating like this, be sure to wipe off the feces with a shaft. Or there is a manner to wipe off the feces with paper. When you do so, don’t use waste paper or paper on which characters are written. Distinguish unused shafts and used shafts clearly.


A shaft should be 24cm-long and be sharpened at the edge. The width of a shaft is as wide as the width of a thumb. Some are lacquered, and others are not lacquered. Used shafts should be thrown into a shaft case. And unused shafts are prepared on a shelf for shafts, and the shelf for shafts are around a board wall in front of a toilet.


The manner of purifying yourself after wiping off the feces using a shaft or paper is that you have a pail with your right hand first, wet your left hand well, and receive water, forming the shape of scooping water with your left hand. First, purify the part stained by urine. Do it three times. Next, purify the part stained by feces as well. When you purify the parts, you should follow the given manner, and clean the parts. When you do that, don’t lose water quickly by tilting a pail roughly and spilling water outside your hand or overflowing water from your hand.


After purifying the parts stained by feces and urine, you should put the pail at the appropriate part. Next, take the shaft and remove moisture using it, or do so using paper. Wipe off both feces and urine on the toilet bowl with a shaft carefully and dry the parts.


Then, pull up your underwear with your right hand, adjust the hem of your kimono, open the door, and go out, having a pail with your right hand. Now you take off the Japanese sandals made of sweet flags and put on your shoes. And then you go back to the washing place, and put the pail back to the place.


Now wash your hands. Take a spoon for ash with your right hand. First, scoop ash with the spoon, put it on a tile stone, add some drops of water on it with your right hand, and wash your left hand touched the dirt with the ash. Wash your left hand as if you were grinding it on a tile stone. Like you are griding a rusted sword on a stone. Wash your hand with ash like this three times. Next, put the earth on the tile stone, add water, and wash your hand three times.


Next, take the powder of honey locusts’ seeds with your right hand and immerse it in water in a pail, and wash your hands, putting both hands together. Wash your hands and arms well. Wash them well full-heartedly. Wash your hands with ash three times, with the earth three times, and with the powder of honey locusts’ seeds once. The basic is washing them seven times in total.


After that, wash your hands in a big pail. This time just wash your hands with water without using face-wash, the earth, or ash. First wash them with water first, move the water to a small pail, pour new water in the big pail, and wash your both hands in it.


This is written in Kegon-kyo Sutra.

“When you wash your hands using water, you should just pray. Pray that all the people will get noble hands and keep Buddha’s teachings.”


When you take a dipper to pour water, be sure to take it with your right hand. When you do so, don’t make a noise by putting a pail and dipper together. Don’t splash water or the powder of honey locusts’ seeds. Don’t splash water around the washing place or do things carelessly. Don’t act roughly.


Next, dry off your hands with Shukin for common use or your Shukin. When you finish drying off your hands, you should go to the place where the rod is and in front of the robe you hanged on, and remove the sash and hang it on the rod. And after joining your hands in prayer, remove the hand towel that tied the robe, and put on the robe.


Then, put your Shukin on the left elbow, and put incense on yourself. There is incense for common use. It’s prepared by shaving fragrant woods and being shaped of a bottle. Its size is a little bigger than a thumb, and its length is as long as the length of 4 fingers. Both ends of the incense are connected with a thin string of longer than 30cm, and it is hanged on the rod. When you join your hands and rub it on, the scent will naturally move to your both hands.


When you hang a sash on the rod, you should hang it at the same position as other sashes, and should not entangle it with other sashes.


Doing these things means rightly purifying this land filled with Buddha’s teachings, and adorning this world filled with Buddha’s teachings. You should do these thoroughly, and should not do these carelessly. Don’t do these, thinking of finishing them in a rush and going home. You should deeply think about the true meaning of the words, “No preaching about Buddhism at Tosu” by great predecessors.


If other monks visit your temple, don’t stare at the faces of monks who enter into Tosu.


When you wash things in a toilet, using cold water is the best. It is said that using hot water can cause bowel diseases. It’s fine to use warm water for washing hands. The reason why some kettles are in Tosu is to boil water and wash your hands. This is written in Zennen Shingi.

“After the evening hours, boil water, refill kerosene oil, and always keep hot water and water so that ascetic monks are not dismayed.”

You can learn from this. Hot water and water should be used together.


If the toilet is stained by excretion, you should close the door and hang a tab to show it is stained. If you accidentally drop a pail in the toilet tank, you should close the door and hang a tab to show a pail was dropped. Don’t enter into the toilet where these tabs are hanged.


If you are in a toilet first and another person gives you a sign by snapping fingers, you should leave the toilet as soon as possible.


This is written in Zennen Shingi.

“If you don’t purify yourself after defecating, you won’t be allowed to sit in a monks’ hall, or worship for monks, or receive worship from other people.”

In addition, this is written in “Obiku Three Thousand Rules of Conduct.”

“If you don’t wash away your feces and urine, you will be guilty for breaking the precept. In addition, you won’t be allowed to sit on a rug where monks are sitting or worship for Buddha or his teachings and worship for monks. Even if you worship, that won’t have any meaning.”


Therefore, put the highest priority on this rule in a training monastery. How can we worship for Buddha and his teachings, and monks without this rule? How can we receive worship from others without it? Or how can we worship others without it?


There used to be this manner at training monasteries of great Buddhist predecessors definitely. And the disciplinants who were practicing at training monasteries of great Buddhist predecessors acquired this manner without fail.


This is not done by forcing yourself to do. This manner is naturally done. It’s the practice of enlightened Buddhists, and the daily life of enlightened Buddhists. And this is not limited to the enlightened Buddhists, but this is the manner in the entire universe, and the manner in the world of enlightened people, the world of straying people, and the entire world.


However, people who are poor in knowledge misunderstand of the existence of the manner of toilets, and think that there is no manner of toilets for enlightened Buddhists. They think that the manner of enlightened people in the straying world we are living in can’t be the same as the manner of enlightened people in the purified enlightened world. This shows that they haven’t learned Buddha's teachings.


You should know this. “Cleanness” and “dirt” are just like blood dripping from human bodies. Sometimes they are warm and other times they are cold. Therefore, there are toilets for enlightened Buddhists. You should understand this.


This is written in Clause 14 of the Sarvastivadi-vinaya.

“A young monk called Rahula fell asleep at Buddha’s toilet for a night. When Buddha got up and noticed that in the morning, he patted Rahula’s head with his right hand and preached this poem. ‘You shaved your head not because of your poverty. You shaved your head not because of the loss of your fortune and social status. You shaved your head to seek the truth. You decided to live in seclusion and became a monk, so you must surely endure hardship.’”


Therefore, training monasteries that pursue Buddha’s truth have toilets. And the manner that pursues the truth in toilets preached by Buddha is “Senjo”(purifying). This manner preached by Buddha still exists just because great Buddhist predecessors have passed down through generations. This is a pleasant thing to show the respect for ancient great people and an irreplaceable great encounter with Buddha’s truth.


Needless to say, Buddha himself preached for Rahula in a toilet. That means a toilet is one of the places where Buddha preached. Every action in a toilet that is a training monastery is what Buddha rightly led and conveyed.


This is written in Clause 34 of Maka sogiritsu.

“Build a toilet in an eastward direction from the main building. Don’t build it in a northward direction. Build it in a southward or westward direction. The same can be applied to the toilet for urinating.”

Follow this practice. This is the layout of many temples in India and the way temples were built when Buddha was alive.


You should know this. This is not only Buddha’s manner but also the way of building training monasteries and temples for Buddha and other enlightened people in the earlier days — 7 great enlightened people. This is also the way of building training monasteries and temples for many enlightened Buddhists. It’s not the thing started by Buddha, but it’s the manner of enlightened Buddhists.


If you build a temple without understanding this in advance and pursue Buddha’s teachings, you will make a lot of mistakes and won’t acquire the manners Buddha preached. So, you won’t reach the truth of Buddha no matter how long time passes. If you want to build a training monastery and open a temple, you should follow the right way Buddha led and conveyed.


This is what Buddha rightly conveyed, so the great results brought by that will be accumulated immeasurably. However, if you are not the rightful successor to Buddha, you won’t be able to understand what the body and soul Buddha preached are like. In addition, if you don’t understand what the body and soul Buddha preached are like, you won’t be able to clarify what you should do as a monk.


Today the fact that the teachings great Shakamuni Buddha preached are universally spread in the universe means that the body and soul of Buddha come alive. The very moment when the body and soul of Buddha come alive means that. 



⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos



Existe uma prática que grandes predecessores budistas mantiveram e transmitiram.  Isso é nunca ser manchado por sujeira.


Huineng perguntou a Dahui em Nangenzan Kannonin,

"Devo continuar praticando depois de alcançar a verdade?"

Dahui respondeu.  "Práticas nunca serão desnecessárias. Porém, uma vez manchado pela sujeira, não alcançará a verdade imediatamente."  Huineng disse,

"Isso mesmo. Nunca ser manchado pela sujeira. Isso é o que os budistas iluminados têm em mente. Você fez isso, e eu também. E grandes predecessores budistas na Índia também fizeram."


Isso está escrito em Obiku Três Mil Regras de Conduta.

"Um corpo limpo - você pode conseguir isso lavando as fezes e a urina e cortando 10 unhas dos dedos."

Ao fazer isso, seu corpo e sua alma não serão manchados pela sujeira.  Além disso, existe uma maneira de limpar o corpo e a alma.  Isso é para purificar sua terra nacional e o local de prática, bem como seu corpo e alma.


Nossa terra nacional nunca foi manchada pela poeira, mas a conduta de "purificação" foi mantida e esperada pelos budistas iluminados.  Isso nunca foi negligenciado mesmo depois de alcançar a verdade ou nunca foi cessado.  O que a doutrina significa é extremamente grande.


As maneiras são a parte essencial da doutrina, e os processos para a verdade são as maneiras.


Estes são escritos em Jingxing ping, Kegon-kyo Sutra.

"Ao defecar ou urinar, você deve orar. Ore para que todas as pessoas lavem a sujeira e não tenham uma mente suja, raivosa ou tola. Além disso, quando você terminar de defecar ou urinar e coletar água,  você deve apenas orar. Ore para que todas as pessoas tomem o melhor caminho e recebam o ensinamento para serem conduzidos ao mundo certo. E quando você lavar a sujeira com água, você deve apenas orar. Ore para que todas as pessoas tenham um  vontade forte que não pode ser manchada pela sujeira e alcançar um solo limpo e imaculado."


A água não é necessariamente limpa ou impura.  Nossos corpos também não são necessariamente limpos ou impuros.  Então não é tudo.  Além do mais, a água não é uma coisa viva ou não viva.  Nosso corpo não é uma coisa viva ou não viva.  Então não é tudo.  Os ensinamentos de Buda são assim.


Dito isto, no entanto, isso não significa apenas purificar seu corpo usando água.  Essa maneira existe para que possamos seguir os ensinamentos de Buda, guardá-los e transmiti-los, e essa maneira é chamada de "Senjo" Isso é dizer a nós mesmos tudo sobre o corpo e a alma de Buda corretamente, o que significa que vemos e ouvimos cada palavra  de Buda para certamente manter a brilhante sabedoria de Buda e passá-la para a próxima geração.


Em primeiro lugar, fazer isso traz resultados extremamente grandes.  No momento em que esta prática for incorporada em seu corpo e alma, você terá completamente coisas a fazer para obter a verdade eterna.  Portanto, a natureza de praticar seu corpo e alma surgirá aí.


Primeiro, corte 10 unhas dos dedos.  10 unhas de seus dedos significam as unhas de ambas as mãos.  Claro, você também deve cortar as unhas dos pés.


Isso está escrito no Sutra.  Se o comprimento de sua unha se tornar tão longo quanto o comprimento de um grão de trigo, você será um pecador.  Portanto, você não deve deixar as unhas crescerem.  Aqueles que deixam as unhas crescerem estão apenas seguindo o tolo que não tem uma fé correta para si.  Então, você deve cortar suas unhas.


No entanto, existem muitos monges chineses que não estão qualificados para aprender os ensinamentos de Buda a cultivar suas unhas.  Alguns monges têm unhas compridas de 3 cm, 6 cm, 9 cm ou 12 cm.  Isso é contra os ensinamentos de Buda.  Obviamente, isso não é um corpo e alma ideais nos ensinamentos de Buda.  Este foi o resultado de negligenciar o treinamento como sucessor dos ensinamentos de Buda.  Isso nunca aconteceria com monges excelentes que seguiram o caminho certo.


Além disso, existem algumas pessoas que deixam o cabelo crescer.  Isso também é contra os ensinamentos de Buda.  Não tome como uma conduta correta seguir os ensinamentos de Buda só porque os monges de um país grande estão fazendo isso.


O santo budista que é meu mestre mostrou fortes palavras de advertência para monges que deixam crescer o cabelo e as unhas como esse.


"Aqueles que não entendem o significado de raspar a cabeça não são leigos, monges ou mesmo humanos. Nos tempos antigos, não havia pessoa que não raspasse a cabeça entre os grandes predecessores budistas. Hoje, aqueles que não entendem  o significado de raspar a cabeça não é mais humano."


Depois que meu mestre mostrou isso para as pessoas, aqueles que não rasparam a cabeça por muitos anos, muitas vezes rasparam a cabeça.  Quando o mestre entrava em uma sala de aula ou pregava, ele os repreendia assim, estalando os dedos.


"Vocês deixaram crescer seus cabelos e unhas por engano, sem saber a razão da conduta. Vocês deveriam lamentar que sua conduta tenha sido contrária à razão, embora tenham vindo a este mundo e se colocado nele. O número dessas pessoas aumentou  porque os ensinamentos de Buda ficaram obsoletos nos últimos 200 ou 300 anos. Essas pessoas se tornaram um mestre do templo e afirmam publicamente que obtiveram um grau de mestre e fingem que podem iluminar as pessoas. Isso é um infortúnio para este mundo. Há  ninguém que tenha a intenção de treinar os ensinamentos de Buda em templos neste mundo. Além disso, aqueles que seguiram os ensinamentos de Buda e alcançaram a verdade foram extintos por muito tempo, e existem apenas bandidos.


Quando meu mestre pregava amplamente assim, aqueles que se chamavam imprudentemente de "presbíteros" não podiam ressentir-se de meu mestre ou dar desculpas.


Você deveria saber disso.  Buda admoestou as pessoas contra o crescimento do cabelo, e o crescimento das unhas é o que os tolos que não têm fé fazem.  Aqueles que herdam os ensinamentos de Buda não devem se inclinar a ser contra os ensinamentos.  Você tem que purificar seu corpo e alma.  Então, você deve cortar as unhas e raspar a cabeça.


Não deixe de lavar as fezes e a urina.  Sariputta, o discípulo de Buda derrotou o tolo que não tem uma fé correta dessa maneira.  Não era o que o tolo que não tem uma fé correta esperava ou o que Sariputta pretendia, mas se o comportamento correto é mostrado diante de nós, um ensinamento errado é derrotado por si mesmo.


Quando as pessoas praticavam sob as árvores ou sob o céu, não havia edifícios que pudessem ser usados para defecar.  Naquela época, eles lavavam suas fezes e urina usando água de um córrego em um vale ou em um rio e terra subdividida.  Eles usaram a terra porque não tinham cinzas.  Costumavam usar 14 bolas de terra arredondada.


A maneira de usar 14 bolas de terra arredondada é a seguinte.  Primeiro, depois de tirar o manto e dobrá-lo, pegue a terra amarela (não enegrecida) e arredonde-a no tamanho de um grão de soja grande e coloque 7 bolas em linha sobre uma pedra ou um determinado local e 14 bolas  em 2 linhas.  Em seguida, prepare uma pedra para polir as mãos.


E então, você defeca.  Depois de defecar, você remove as fezes usando uma haste ou papel.  Então, você vai para a beira da água e se purifica.  Primeiro, purifique-se, usando 3 bolas da terra.  Pegue uma bola de terra na palma da mão, adicione um pouco de água, misture com a terra e torne-a mais fina que a lama, como um mingau de arroz ralo.  Em seguida, lave a parte manchada pela urina com a ajuda da bola.  Em seguida, pegue outra bola de terra e lave a parte manchada pelas fezes como fez anteriormente.  E então, lave as mãos simplesmente, usando a terceira bola de terra como você fez anteriormente.


Depois que os monges passaram a morar nos templos, eles prepararam um prédio para defecar.  O prédio usado para defecar era chamado de "Tosu".  Antigamente, eles eram chamados de Qing ou Cè.  É um edifício que certamente deveria estar em lugares onde moram monges.


A maneira de ir ao Tosu é preparar primeiro um pano longo e fino chamado “Shukin” (pano de algodão longo).  A maneira de preparar uma Shukin é dobrá-la ao meio e pendurá-la nas mangas de um roupão, pendurada na parte do cotovelo esquerdo.


Quando chegar a Tosu, pendure uma Shukin em uma haste.  A maneira de pendurar uma Shukin em uma haste é a mesma que você pendura no cotovelo.  Se você estiver vestindo uma túnica grande como Kujo e Shichijo, você deve pendurá-la ao lado da Shukin.  Pendure-o em uma haste para que não caia.  Não pendure-o descuidadamente.


E lembre-se bem da marca.  Os caracteres são escritos em uma haste.  Ou pedaços de papel branco nos quais os caracteres são escritos são enrolados e alinhados em uma haste.  Portanto, você deve tentar não esquecer em que posição pendurou seu manto e não cometer erros.  É por isso que você precisa se lembrar da marca.  Se muitos monges visitam seu templo, não confunda sua posição com a posição de outras pessoas.


Se os monges vierem e ficarem em fila, vocês devem dar as mãos e fazer uma reverência.  Quando você faz uma reverência, não precisa fazer uma reverência profunda, vendo um ao outro.  Você deve apenas mostrar sua intenção levemente, colocando as mãos unidas.  Quando você está em Tosu e vê um monge, deve mostrar sua intenção, mesmo que não esteja usando um manto.


Se suas duas mãos ainda não tocaram sua excreção e você não tem nada em ambas as mãos, você deve dar as mãos e fazer uma reverência.  No entanto, se sua mão já tocou sua excreção ou você tem algo em sua mão, você deve fazer um arco com a mão.  Ao fazer uma reverência com a mão, você deve virar a palma da mão para cima e dobrar as pontas dos dedos um pouco como se estivesse pegando água e fazer uma leve reverência.  Se a outra pessoa fizer isso, você também deve fazer.  E se você fizer isso, a outra pessoa também o fará.


Em seguida, tire um manto como “Henzan” e “Jikitotsu” e pendure-o ao lado da Shukin.  A maneira é que você deve primeiro tirar um manto, e juntar as mangas nas costas, e puxar as mangas para cima, unindo os lados para unir as duas mangas.  Quando você segura a parte de trás da gola com a mão esquerda e puxa as laterais do roupão com a mão direita, ambas as bainhas e as duas golas se unirão.  Em seguida, junte as duas mangas e as duas golas, e dobre-as ao meio no sentido do comprimento, e jogue a lateral da gola por cima da haste.  Então, a bainha e os punhos de um manto virão para o seu lado.  Em suma, a parte do quadril do manto será pendurada na haste.


E cruze as duas pontas da Shukin na haste, traga-as do outro lado do manto para o seu lado e amarre-as, cruzando-as do seu lado.  Se você trazê-los do outro lado do manto para o seu lado duas ou três vezes, e amarrá-los, cruzando-os bem do seu lado, o manto não cairá da vara.  E então, você deve juntar suas mãos e orar em direção ao manto.


Em seguida, pegue uma faixa e dobre as mangas com ela.  E vá a um lavatório, coloque água em um balde e vá ao banheiro, tendo o balde com a mão direita.  A maneira de colocar água em um balde é que você não deve colocar muita água em um balde.  Coloque água até 90%.


Ao chegar à frente da porta do banheiro, você deve trocar seus sapatos por sandálias japonesas.  Calce as sandálias japonesas feitas de bandeiras doces e tire os sapatos em frente à porta.  Isso é chamado.  "Kanai".


Isso está escrito em Zennen Shingi.  "Se você quer ir para Tosu, deve ir com tempo de sobra. Não aja de forma descuidada, mesmo que tenha vontade de defecar e não aguente. Em outras palavras, você deve dobrar seu manto e o  O manto dobrado deve ser colocado em uma mesa em um corredor ou pendurado em uma haste em Tosu."


Quando estiver no banheiro, feche a porta com a mão esquerda.  Em seguida, despeje um pouco de água em um balde no vaso sanitário.  Você deve colocar o balde em um local apropriado à sua frente. Em seguida, deve estalar os dedos três vezes, levantando-se.  Ao estalar os dedos, você deve juntar a mão esquerda e colocá-la no quadril esquerdo.  Em seguida, puxe a cueca para baixo, levante a bainha do quimono, pise nos dois lados do vaso sanitário com os dois pés e defece, agachado.


Não manche os dois lados do vaso sanitário.  Não espirre sua excreção na frente e atrás do vaso sanitário.  Ao defecar, deve-se ficar em silêncio, mantendo a boca fechada.  Não fale, ria ou cante em voz alta através de uma parede.  Não manche o vaso sanitário com o nariz escorrendo ou cuspindo.  Não dê um grunhido quando você se esforça para defecar.  Não rabisque na parede.  Não desenhe no chão com uma flecha.


Depois de defecar assim, certifique-se de limpar as fezes com uma haste.  Ou existe uma maneira de limpar as fezes com papel.  Ao fazer isso, não use papel velho ou papel com caracteres escritos.  Distinga claramente os eixos não utilizados e os eixos usados.


Uma haste deve ter 24 cm de comprimento e ser afiada na borda.  A largura de um eixo é tão larga quanto a largura de um polegar.  Alguns são envernizados e outros não são envernizados.  Eixos usados devem ser jogados em uma caixa de eixo.  E os eixos não utilizados são preparados em uma prateleira para eixos, e a prateleira para eixos está ao redor de uma parede de tábua na frente de um banheiro.


A maneira de se purificar após enxugar as fezes com uma vareta ou papel é pegar primeiro um balde com a mão direita, molhar bem a mão esquerda e receber água, formando uma concha com a mão esquerda.  Primeiro, purifique a parte manchada pela urina.  Faça três vezes.  A seguir, purifique também a parte manchada pelas fezes.  Ao purificar as partes, você deve seguir a maneira indicada e limpá-las.  Ao fazer isso, não perca água rapidamente inclinando um balde bruscamente e derramando água fora de sua mão ou transbordando água de sua mão.


Após a purificação das partes manchadas por fezes e urina, deve-se colocar o balde na parte apropriada.  Em seguida, pegue o eixo e remova a umidade com ele, ou faça-o com papel.  Limpe cuidadosamente as fezes e a urina do vaso sanitário com uma vareta e seque as peças.


Em seguida, puxe a cueca com a mão direita, ajuste a bainha do quimono, abra a porta e saia levando um balde com a mão direita.  Agora você tira as sandálias japonesas feitas de bandeiras doces e calça os sapatos.  E então você volta para o local de lavagem e coloca o balde de volta no local.


Agora lave as mãos.  Pegue uma colher de cinzas com a mão direita.  Primeiro, retire as cinzas com a colher, coloque-as em uma pedra de ladrilho, adicione algumas gotas de água com a mão direita e lave a mão esquerda tocada na sujeira com as cinzas.  Lave a mão esquerda como se a estivesse moendo em uma pedra de ladrilho.  Como se você estivesse enfiando uma espada enferrujada em uma pedra.  Lave a mão com cinzas assim três vezes.  Em seguida, coloque a terra na pedra do ladrilho, adicione água e lave a mão três vezes.


Em seguida, pegue o pó das sementes de gafanhoto com a mão direita e mergulhe-o em água em um balde, e lave as mãos, juntando as duas mãos.  Lave bem as mãos e os braços.  Lave-os bem e de todo o coração.  Lave as mãos três vezes com cinza, três vezes com terra e uma vez com pó de sementes de gafanhotos.  O básico é lavá-los sete vezes no total.


Depois disso, lave as mãos em um balde grande.  Desta vez, apenas lave as mãos com água sem usar sabonete facial, terra ou cinzas.  Primeiro, lave-os com água primeiro, mova a água para um balde pequeno, despeje água nova no balde grande e lave as duas mãos nele.


Isso está escrito no Kegon-kyo Sutra.  "Ao lavar as mãos com água, você deve apenas orar. Ore para que todas as pessoas tenham mãos nobres e guardem os ensinamentos de Buda."


Ao pegar uma concha para derramar água, certifique-se de pegá-la com a mão direita.  Ao fazer isso, não faça barulho juntando um balde e uma concha.  Não salpique água ou o pó das sementes de gafanhoto.  Não jogue água no local de lavagem ou faça as coisas de forma descuidada.  Não aja rudemente.


Em seguida, seque as mãos com uma Shukin de uso comum ou com a Shukin.  Quando acabares de secar as mãos, deves dirigir-te ao local onde está o varão e à frente do manto que penduraste, retirar a faixa e pendurá-lo no varão.  E depois de unir as mãos em oração, retire a toalha de mão que prendia o manto e coloque o manto.


Em seguida, coloque a Shukin no cotovelo esquerdo e coloque incenso em você.  Há incenso de uso comum.  É preparado raspando madeiras aromáticas e sendo moldado em garrafa.  Seu tamanho é um pouco maior que um polegar e seu comprimento é de até 4 dedos.  Ambas as pontas do incenso são conectadas com um fio fino de mais de 30 cm, e ele é pendurado na haste.  Quando você junta as mãos e esfrega, o cheiro se move naturalmente para as duas mãos.


Ao pendurar uma faixa na haste, você deve pendurá-la na mesma posição que as outras faixas e não deve emaranhá-la com outras faixas.


Fazer essas coisas significa purificar corretamente esta terra repleta de ensinamentos de Buda e adornar este mundo repleto de ensinamentos de Buda.  Você deve fazê-los completamente e não deve fazê-los descuidadamente.  Não faça isso, pensando em terminá-los com pressa e ir para casa.  Você deve pensar profundamente sobre o verdadeiro significado das palavras "Não há pregação sobre o budismo em Tosu" por grandes predecessores.


Se outros monges visitarem seu templo, não olhe para os rostos dos monges que entram em Tosu.


Quando você lava as coisas no banheiro, usar água fria é o melhor.  Diz-se que o uso de água quente pode causar doenças intestinais.  É bom usar água morna para lavar as mãos.  A razão pela qual algumas chaleiras estão em Tosu é para ferver água e lavar as mãos.  Isso está escrito em Zennen Shingi. 

 "Após as horas da noite, ferva a água, reabasteça o óleo de querosene e sempre mantenha a água quente e a água para que os monges ascetas não sejam consternado." 

Você pode aprender com isso. Água quente e água devem ser usadas juntas.


Se o banheiro estiver manchado por excreção, você deve fechar a porta e pendurar uma aba para mostrar que está manchado.  Se você acidentalmente deixar cair um balde no tanque do vaso sanitário, feche a porta e pendure uma aba para mostrar que o balde caiu.  Não entre no banheiro onde essas abas estão penduradas.


Se você estiver no banheiro primeiro e outra pessoa lhe der um sinal estalando os dedos, você deve sair do banheiro o mais rápido possível.


Isso está escrito em Zennen Shingi.  "Se você não se purificar depois de defecar, não terá permissão para se sentar em um salão de monges, ou adorar para monges, ou receber adoração de outras pessoas."  "Se você não lavar suas fezes e urina, você será culpado por quebrar o preceito. Além disso, você não terá permissão para sentar em um tapete onde os monges estão sentados ou adorar Buda ou seus ensinamentos e adorar por  monges. Mesmo se você adorar, isso não terá nenhum significado."

Além disso, isso está escrito em "Obiku Três Mil Regras de Conduta".

Portanto, coloque a mais alta prioridade nesta regra em um mosteiro de treinamento.  Como podemos adorar Buda e seus ensinamentos e monges sem esta regra?  Como podemos receber adoração de outros sem isso?  Ou como podemos adorar os outros sem isso?


Costumava haver essa maneira de treinar mosteiros de grandes predecessores budistas definitivamente.  E os disciplinantes que estavam praticando em monastérios de treinamento de grandes predecessores budistas adquiriram esta maneira sem falta.


Isso não é feito forçando-se a fazer.  Essa maneira é feita naturalmente.  É a prática dos budistas iluminados e a vida diária dos budistas iluminados.  E isso não se limita aos budistas iluminados, mas é assim em todo o universo, e é assim no mundo das pessoas iluminadas, no mundo das pessoas perdidas e no mundo inteiro.


No entanto, as pessoas que são pobres em conhecimento não entendem a existência do tipo de banheiro e pensam que não há nenhum tipo de banheiro para budistas iluminados.  Eles pensam que o modo de ser das pessoas iluminadas no mundo errante em que vivemos não pode ser o mesmo que o modo de ser das pessoas iluminadas no mundo purificado e iluminado.  Isso mostra que eles não aprenderam os ensinamentos de Buda.


Você deveria saber disso.  "Limpeza" e "sujeira" são como sangue pingando de corpos humanos.  Às vezes eles são quentes e outras vezes são frios.  Portanto, existem banheiros para budistas iluminados.  Você deve entender isso.


Isso está escrito na cláusula 14 do

Sarvastivadi-vinaya.  "Um jovem monge chamado Rahula adormeceu no banheiro de Buda por uma noite. Quando Buda se levantou e percebeu isso pela manhã, ele deu um tapinha na cabeça de Rahula com a mão direita e pregou este poema. 'Você raspou sua cabeça não por causa de sua pobreza.  Você raspou a cabeça não por causa da perda de sua fortuna e status social. Você raspou a cabeça para buscar a verdade. Você decidiu viver em reclusão e se tornou um monge, então certamente deve suportar dificuldades.""


Portanto, mosteiros de treinamento que buscam a verdade de Buda têm banheiros.  E a maneira que busca a verdade nos banheiros pregada por Buda é “Senjo”(purificadora).  Essa maneira pregada por Buda ainda existe porque grandes predecessores budistas passaram de geração em geração.  Isso é uma coisa agradável para mostrar o respeito pelas grandes pessoas antigas e um grande encontro insubstituível com a verdade de Buda.


Desnecessário dizer que o próprio Buda pregou para Rahula em um banheiro.  Isso significa que um banheiro é um dos lugares onde Buda pregou.  Cada ação em um banheiro que é um mosteiro de treinamento é o que Buda conduziu e transmitiu corretamente.


Isso está escrito na Cláusula 34 do Maka sogiritsu.

"Construa um banheiro na direção leste do prédio principal. Não construa na direção norte. Construa na direção sul ou oeste. O mesmo pode ser aplicado ao banheiro para urinar."  Siga esta prática.  Este é o layout de muitos templos na Índia e a forma como os templos foram construídos quando Buda estava vivo.


Você deveria saber disso.  Esta não é apenas a maneira de Buda, mas também a maneira de construir mosteiros e templos de treinamento para Buda e outras pessoas iluminadas nos primeiros dias - 7 grandes pessoas iluminadas.  Esta é também a maneira de construir mosteiros e templos de treinamento para muitos budistas iluminados.  Não é a coisa iniciada por Buda, mas é a maneira dos budistas iluminados.


Se você construir um templo sem entender isso com antecedência e seguir os ensinamentos de Buda, cometerá muitos erros e não adquirirá as maneiras que Buda pregou.  Então, você não alcançará a verdade de Buda, não importa quanto tempo passe.  Se você deseja construir um mosteiro de treinamento e abrir um templo, você deve seguir o caminho certo


Isso é o que Buda transmitiu corretamente, então os grandes resultados trazidos por isso serão acumulados imensuravelmente.  No entanto, se você não for o legítimo sucessor de Buda, não será capaz de entender como são o corpo e a alma que Buda pregou.  Além disso, se você não entender como são os ensinamentos do Buda de corpo e alma, não será capaz de esclarecer o que deve fazer como monge.


Hoje, o fato de os ensinamentos pregados pelo grande Buda Shakamuni estarem universalmente difundidos no universo significa que o corpo e a alma de Buda ganham vida.  O próprio momento em que o corpo e a alma de Buda ganham vida significa isso.



[後記]


「洗浄」が書かれたのは1239年。それは道元が渾身の力を注ぎ込み世に出した大著『正法眼蔵』の華々しき巻頭を飾る「現成公案」を書いたわずか5年後、道元39歳のことだった。


「洗浄」はトイレにおける作法を記した一種のマニュアルである。マニュアルは道元にとってとても重要な意味を持っていた。したがって彼はその生涯で、マニュアルと呼ばれるようなものをいくつも書いている。その数あるマニュアルの中で「洗浄」は、「洗面」と共に最も早く書かれたマニュアルなのだ。


ちなみに「manual」という言葉は、何らかの結果を得るための、その所作や手順などを記したものを指すが、そういう意味においては、少なくとも僕が道元のそれらの著述に対して「manual」という言葉を使うのは間違っている。


例えば「坐禅儀」には、坐禅をする場所、衣服、姿勢、呼吸の仕方、その際の心構えといった、坐禅をするためのあらゆる事が微に入り細に入り記されている。

しかし道元の坐禅は、自我を捨てるとか、悟りを得るとか、何かを捨てたり何かを得るために坐るのではない。定められたマニュアルに従い、ただ壁に向かって坐るのだ。坐ること、それ自体が到達点なのだ。


ようするに道元の坐禅は「マイナス」でもなく、「プラス」でもなく、すなわち「イコール」なのである。それが道元の只管打坐だ。


そしてそれが道元の禅の根本原理なのだ。彼が書き残した多くのマニュアルもまた同じく、そこには、ただ行うべき一挙手一投足が微に入り細に入り記されているが、そこにその行いによってもたらされる「結果」という未来は存在していない。


したがって道元がこの「洗浄」の中でも言及しているように、トイレにおける洗い清めるという行いもまた同じく、体の汚れを除くために洗うのではなく、きれいな体を得るために洗うのでもなく、ただひたすら洗い清めるのだ。


道元は「現成公案」の中で、この世のすべての現象のその有りのままが真理を現していると語っていた。彼にとって日常のすべてもまた、それと何ら変わりはなかったのだ。毎日繰り返されている、顔を洗い、食べ、排泄し、そして眠るといった、その変わり映えのしないありふれた日常のすべてに、彼は真理を見出していたんだと僕は思う。



⬜︎ English translation



It was 1239 that Senjo (Purifying) was written. It was only 5 years after Dogen wrote Genjo-koan that adorned the beginning of Shobogenzo, the True Dhama-eye Treasury Volume, a masterpiece in which Dogen put so much effort when he was 39 years old.


Senjo (Purifying) is a sort of a manual that explains the manners in a toilet. Manuals had a very important meaning to Dogen. So, he wrote several manuals in his life. Of his many manuals, Senjo (Purifying) is a manual that was written in the earliest timing of his life as well as Senmen (Washing a face).


By the way, the word, “manual” means a writing to show behaviors or procedures in order to get some results. In that way, at least it’s wrong for me to use a word, “manual” for Dogen’s writings.


For example, all about zazen including the place suitable for zazen, clothes, postures, how to breath, and the attitude are written in detail in Zazengi, a manual for zazen.


However, Dogen’s zazen is not for losing something or gaining something like losing the ego, becoming enlightened, etc. It means following the given manual and just sitting facing a wall. Sitting itself is the reaching point.


In short, Dogen’s zazen is not negative or positive, but it’s just what it is. That’s Dogen’s shikantaza.


And that’s Dogen’s zen’s basic principle. Many manuals he wrote also have details that should be done, but they don’t have the “results” to be brought by the conducts.


Therefore, as Dogen said in this Senjo (Purifying), the act of purifying in a toilet does not mean washing to remove dirt of a body or washing to get a clean body, but it means just simply purifying.


Dogen said all the phenomena in this world show the truth as they are in Genjo-koan. For him, everything in daily lives also showed the truth. I think he found the truth in everything common in daily lives such as washing a face, eating, defecating, and sleeping.



⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos



Foi em 1239 que Senjo (Purificante) foi escrito.  Foi apenas 5 anos depois que Dogen escreveu Genjo-koan que adornou o início de Shobogenzo, o Verdadeiro Dhama-eye Treasury Volume, uma obra-prima na qual Dogen colocou tanto esforço quando tinha 39 anos.


 Senjo (Purificante) é uma espécie de manual que explica as boas maneiras em um banheiro.  Os manuais tinham um significado muito importante para Dogen.  Então, ele escreveu vários manuais em sua vida.  De seus muitos manuais, Senjo (Purificação) é um manual que foi escrito no início de sua vida, assim como Senmen (Lavar o rosto).


 A propósito, a palavra "manual" significa uma escrita para mostrar comportamentos ou procedimentos a fim de obter algum resultado.  Dessa forma, pelo menos é errado eu usar a palavra "manual" para os escritos de Dogen.


 Por exemplo, tudo sobre zazen, incluindo o local adequado para zazen, roupas, posturas, como respirar e a atitude, está escrito em detalhes no Zazengi, um manual para zazen.


No entanto, o zazen de Dogen não é para perder algo ou ganhar algo como perder o ego, tornar-se iluminado, etc. Significa seguir o manual fornecido e apenas sentar-se de frente para uma parede.  Sentar-se em si é o ponto de alcance.


 Resumindo, o zazen de Dogen não é negativo ou positivo, mas é exatamente o que é.  Isso é Shikantaza de Dogen.


 E esse é o princípio básico do zen de Dogen.  Muitos manuais que ele escreveu também trazem detalhes do que deve ser feito, mas não têm os "resultados" a serem trazidos pelas condutas.


 Portanto, como Dogen disse neste Senjo (Purificar), o ato de purificar em um banheiro não significa lavar para remover a sujeira de um corpo ou lavar para obter um corpo limpo, mas significa simplesmente purificar.


 Dogen disse que todos os fenômenos neste mundo mostram a verdade como eles são em Genjokoan.  Para ele, tudo no cotidiano também mostrava a verdade.Acho que ele encontrou a verdade em tudo que é comum na vida cotidiana, como lavar o rosto, comer, defecar e dormir.