我々をとりまくありとあらゆる存在が、ブッダの説いた真理によって貫かれているこの瞬間、現実としてそこには、迷いがあり、悟りがあり、また、悟りに達しようとする様々な行いがあり、生があり、死があり、そして、悟り目覚めた人がいるかと思えば、いまだ迷いから逃れられない人もいる。
しかし、我々がそんなすべての存在から解き放たれたその瞬間、もはやそこには、迷いもなく、悟りもなく、したがって悟り目覚めた人もいなければ、迷いから逃れられない人もいなくて、そして生もなく、死もないのだ。
とは言うものの、そもそもブッダの説いた道理とは、存在の「有」「無」といった相対的概念を超越したものだから、当然そこには、生もあり、死もあり、また迷いもあり、悟りもあり、そして悟り目覚めた人もいれば、いまだ迷いから逃れられない人もいる。
ところがそんな現実の中で、花は惜しまれながら散りゆき、草は恨まれながら蔓延るのだ。
おのれ自身の側から、この世のすべての存在を見極めること、それは「迷い」だ。この世のすべての存在の側から、おのれ自身を見極めること、それが「悟り」だ。また「迷い」とは何かを理解しているのが悟りへと達する者であり、「悟り」とは何かを理解できずに迷っているのが、この世に生きる多くの者たちなのだ。
そんな彼らの中には、悟りへ達しながらさらに悟りを得る者もいれば、迷いの中でさらに迷い続ける者もいる。実は悟りを得た者は、まさに悟りを得たその瞬間、おのれ自身が悟りを得たと自覚することはないのだ。しかしそれこそが、悟りを得た者の真の姿であり、だからこそ彼らは、悟りを得た後も変わることなく、正しい日々を送り続けるのだ。
心身を集中して形を見て、心身を集中して音を聴くと、そのすべてを見極めたような錯覚におちいることがある。だがそれは鏡に像が映り、水に月が映るようなものではない。物事を一方から見極めようとすると、そこに現れていないもう一方を見失ってしまうものだ。
ブッダの説いた道理を探求するということは、おのれ自身を探求するということだ。おのれ自身を探求するということは、おのれ自身を忘れるということだ。また、おのれ自身を忘れるということは、この世のすべての存在におのれ自身をゆだねるということだ。この世のすべての存在におのれ自身をゆだねるということは、すなわち「自己」「他者」といった存在の概念から解き放たれるということだ。
そして悟りを得た後、その悟りを得たという意識を消し去る。すなわち、意識を消し去ったまま、後の悟りの日々を永々として送り続けるのだ。
人が初めて真理を探求する時、人は真理とは遠く離れた所を彷徨っている。しかし真理が正しく伝わった瞬間、その人はおのれ自身の中に真理を見出している
人が舟に乗って行く時、ふと岸を眺めると、あたかも岸が動いているかのような錯覚におちいることがある。しかし、よく目をこらして舟を見てみると、実際は岸ではなく舟が動いていることに気づくはずだ。このように、おのれ自身の存在というものを正しく認識しないまま、この世のすべての存在を見極めようとすると、あたかもおのれ自身の存在が、永久不変であるかのような錯覚におちいる。しかし、もし日々の正しい行いに身を投じ、その本質に立ち戻れば、この世のすべての存在のごとく、おのれ自身の存在もまた、永久不変ではないことに気づくはずだ。
薪木は燃えて灰になる。しかし灰が薪木に戻ることはない。まずこの大前提を心にとどめ、灰はその後だ、薪木はその前だといった見方をしてはいけない。
理解したまえ。薪木は薪木として歴然として存在しているのだ。そして薪木には確かに、薪木になる前の、薪木になった後のといった形の変化があるが、それぞれが異なった物質として存在しているのだ。また灰も灰として歴然として存在していて、薪木と同じく、灰になる前の、灰になった後のといった形の変化があるが、それぞれが異なった物質として存在しているのである。
このように、薪木が燃えて灰になった後、ふたたび薪木にならないように、人間もまた死んだ後、ふたたび生き返ることはない。これを「生」が転じて「死」に至ったと言わないことが、ブッダが説いた真理の大前提である。したがって、それを「不生」という。そして「死」が転じて「生」に至らないということが、ブッダの真理を説く大前提なのだ。したがってそれを「不滅」という。
「生」も人生におけるひとつの存在であって、「死」もまた人生におけるひとつの存在なのだ。たとえば、それは冬と春のようなものだ。冬が変化したものを春だと思わないように、そして、春の変化したものを夏だとは言わないように。
人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が映るようなものだ。月は水によって濡れることはなく、水は月によって破れることはない。また月の輝きは、広く大きな光ではあるが、わずかな小さな水面にも映る。すなわち、月のすべてが大宇宙もろとも草上の露に映り、さらに一滴の水にも映るのだ。
そして、悟りというものが人に痕跡を残さないこと、それはちょうど月が水を突き破らないようなものだ。また、人が何ものにも妨げられることなく悟りを得られること、それは一滴の露が何ものにも妨げられることなく、天の月を映し出すようなものだ。
「深い」「浅い」というという言葉は、またそのものの程度の「高さ」「低さ」を表しているものだ。そして、とかく修行した時間の「長い」「短い」を持ち出す者がいるように、月の映る水の「大きさ」「小ささ」を問題にする者がいるだろう。しかし、その水に映る月そのものに「広さ」「狭さ」という違いがあるのかどうか、それを正しく理解すべきだ。
また、身心がいまだに真理で満たされていないというのに、あたかもすでに真理で満たされたような錯覚におちいることがある。しかし、身心が真理で満たされれば、おのずと何かが足らないことに気づくはずだ。
たとえば船に乗り、まったく陸地の見えない海に漕ぎ出し、まわりを見渡してみると、海はただひたすら丸く見えるだけで、それ以外の見え方はしない。だが、海は丸いわけでもなく、四角いわけでもない。それは目の前に現れていない、海が海として存在している、その本質が見えていないだけなのだ。ある言い伝えによると、龍魚に海は荘厳な宮殿のように見え、天人に海は光輝く装身具のように見えるという。ようするにただ我々の視界には、海はとりあえず丸く見えているだけのことなのである。
これと同じく、この世のすべての存在もまたしかりだ。俗世間、出世間にかかわらず、この世のすべてのものは様々な様相を呈して存在しているが、我々は自らが体験した経験だけでものを見て、理解しているにすぎないのだ。したがって、この世のすべての存在の本質を見極めるには、四角いとか丸いとか、ただ目に見えていることだけではなく、それ以外の、海が海として存在している、山が山として存在している、はかり知れないほど多くの局面が、この世界にはあるのだということを知るべきだ。それはなにも、身の回りのことだけに限ったことではない。おのれ自身も、また一滴の水も、何ら変わりはないのだということを知るべきだ。
魚は水を泳ぎまわるが、泳いでも水に果てはなく、鳥は空を飛びまわるが、飛んでも空に果てはない。とは言え、魚も鳥も、いまだかつて水を、空を離れたことがない。ただ、大きく泳ぎたい時、大きく飛びたい時は、大きく泳ぎまわり、大きく飛びまわる。また、小さく泳ぎたい時、小さく飛びたい時は、小さく泳ぎまわり、小さく飛びまわる。このようにして、それぞれ限界なく泳ぎまわり、飛びまわり、どこでも隈なく泳ぎまわり、飛びまわる。とは言え、鳥がもし空を離れれば、鳥はたちまちにして死ぬ。また同じく、魚がもし水を離れれば、魚はたちまちにして死ぬ。
魚にとって水がすなわち命だと理解しろ。鳥にとって空がすなわち命だと理解しろ。そして、鳥がすなわち命であり、魚がすなわち命である。あるいは、命がすなわち鳥に違いなく、命がすなわち魚に違いない。このようにして、さらに思考を発展させていくのだ。たとえば、修行と悟りがあること、また人に死と生があることも、このようにして思考を発展させていくのである。
しかし、水とは何かを究め、空とは何かを究めたあと、水を泳ぎ続け、空を飛び続けようとする鳥や魚がいれば、彼らは水にも空にも、歩むべき道を得ることができず、そして、在るべき所を得ることもできない。しかし、この在るべき所を得れば、やがて正しい行いに身を投じることによって、その日々の中に真理は現れる。同じく、この歩むべき道を得れば、やがて正しい行いに身を投じることによって、その日々の中に真理は現れるのだ。この道は、この所は、「大」「小」といった概念を超越し、また「自己」「他者」といった概念も超越している。そしてさらに「過去」「現在」といった概念をも超越しているからこそ、こうして存在しているのだ。
このようにして、人がもしブッダの説いた道理をたどり見極めようとするなら、ひとつの教えを得れば、ひたすらそのひとつの教えと向き合い、ひとつの行いに会えば、ひたすらそのひとつの行いを修めるのだ。そしてそこにこそ、在るべき所があり、歩むべき道が通じているわけだが、それに気付くという瞬間を、本人が気付いたと自覚できないのは、それに気付くことこそがブッダの真理を究め尽くしたことに他ならず、それは共に同じ瞬間に得られるものだからなのだ。
だが、こうして得たことが必ず自己の知見となって、物事を深く理解できるようになるんだなどと勘違いしてはならない。確かに、悟りの瞬間というものはすみやかに現れるものだが、悟りを得たという実感は必ずしも現れるものではなく、どうしてそんなものが実感として現れる必要があるだろうか。
麻浴山宝徹禅師が扇であおいでいたところ、一人の僧がやってきて尋ねた。
「風というものは常に吹き抜けていて、それは所に関係なく吹き抜けているもの。それなのに、どうして和尚はさらに扇を使ってあおぐのですか?」
師は言った。
「お前は、ただ風が常に吹き抜けていることを知っているだけで、まだ、所に関係なく吹き抜けているということの、真の意味を理解していないのだ」
僧は言った。
「では、所に関係なく吹き抜けているということの、真の意味とはいったい何ですか?」
すると師は、何も答えず、ただ扇であおいだ。
僧はそれを見た瞬間、その真の意味に気づかされ、師にむかい深く礼拝した。
ブッダの説いた真理というものの現れ、またそれが正しく伝わるプロセスとはこのようなものだ。風というものが常に吹き抜けているのなら、扇など使う必要はない。また、扇など使わなくても風を感じることができるなどと言う者は、風というものが常に吹き抜けているということの意味も、風というものの本質もまったく理解していないのだ。風というものの本質が、常に吹き抜けているからこそ、ブッダの説いた真理の風は、この大地を黄金色に輝かせ、大河をチーズのように熟成させるのだ。
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現代語訳 正法眼蔵 現成公案
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⬜︎ English translation
While all beings surrounding us are led by Buddha’s truth, in fact there are confusion, enlightenment, a variety of practices to reach enlightenment, birth and death. And while there are enlightened people, there are people who still can’t be rid of confusion.
However, the moment we are free from all such things in this world, there will be no confusion and enlightenment anymore, so there will be no enlightened people and people who still can’t be rid of confusion, and no birth and death.
Having said that, however, as Buddha’s principles are beyond relative concepts such as bigness or smallness of objects and existence or no existence of things, there are birth, death, confusion, enlightenment, enlightened people and people who still can’t be rid of confusion. However, in such a reality, blossoms fall, being missed, and weeds spread, being blamed.
Judging all beings in this world from your perspectives will lead to confusion. And judging yourself from the perspective of all beings in this world will lead to enlightenment. In addition, those who understand what confusion is can reach enlightenment, and those who are confused without understanding what enlightenment is are most people living in this world. Some can get further enlightenment after reaching enlightenment and others continue to get more confused in their confusion.
Enlightened people are not aware that they are enlightened at the very moment of their enlightenment. But that is exactly what enlightened people are like, and that is why they continue to live their righteous lives, unchanged, even after they attained enlightenment.
When you focus your mind and body on a form, and when you focus your body and mind on a sound, you may have the illusion that you have discerned all of it, but it is not like seeing an image reflected in a mirror or the moon in water. If you try to judge things from one side, you will lose sight of the other side that is not showing up there.
To search for the Buddha's truth is to search for oneself. To explore oneself is to forget oneself. To forget oneself is to surrender oneself to all beings in the world. To surrender oneself to all beings in the world means to be free from the concept of "self" and "others.” Then, after attaining enlightenment, he or she erases his or her awareness of that enlightenment. In other words, they must erase their awareness that they have reached enlightenment, and then continue to live in a perpetual state of enlightenment.
When one first searches for truth, one is wandering far from the truth. However, the moment the truth is conveyed correctly, the person has found the truth within himself.
When a person travels on a boat and looks at the shore, he or she may be under the illusion that the shore is moving. However, if the person carefully stares at the boat, he or she will realize that the boat is actually moving, not the shore. If you try to discern the existence of all beings in the world without properly recognizing your own existence, you will fall into the illusion that your own existence is eternal and unchanging. However, if you lead a righteous life and return to its essence, you will realize that your own existence, like all beings in this world, is not eternal and unchanging.
Firewood burns to ashes. But the ashes don’t return to the firewood. Keep this basic premise in your mind and don’t look at the ashes as something that comes after and the firewood as something that comes before. You should understand this. Firewood exists as firewood. And wood certainly has a form before becoming firewood and a form after becoming firewood. However, they are not the same, and each exists as a different substance. Ashes also exist as ashes, and just like wood, they exist as different substances, with some changing before becoming ashes and some changing after becoming ashes.
Thus, just as firewood doesn’t become firewood again after it has burned to ashes, human beings don’t come back to life again after they die. The basic premise of the Buddha's truth is not to say that "life" has turned into "death. This is called "un-arising.” And it is the basic premise of the Buddha's truth that "death" never turns into "life". Therefore, it is called "immortality.” “Life” is a part of life, and “death” is also a part of life. For example, it is like winter and spring. Just as we do not think that what winter has changed into is spring, we do not say that what spring has changed into is summer.
A human’s attaining enlightenment is like the reflection of the moon in water. The moon is not wetted by water, and water is not broken by the moon. And the moon's radiance is reflected even on a small surface of water, although it is a broad and big light. In other words, everything about the moon is reflected in the dew on the grass, including the macrocosm, and even in a drop of water. And that enlightenment leaves no trace on a person, just as the moon does not pierce the water. And that one can attain enlightenment unhindered by anything is like a drop of dew reflecting the heavenly moon unhindered by anything.
The words "deep" and "shallow" are also expressions of "high" and "low" degrees of something. And just as there are those who often bring up the "long" or "short" length of time one has practiced Buddhism, there are those who may question the "size" or "smallness" of the water in which the moon is reflected. However, we should correctly understand whether there is a difference between the "size" and "smallness" of the moon itself reflected in that water.
Sometimes we have the illusion that our bodies and minds are already filled with the truth, when they haven’t been. However, when our body and mind are filled with the truth, we will naturally realize that something is missing. For example, when you get on a boat and row out to the sea, where you cannot see any land at all, and look around you, the sea just looks round and round, but you cannot see anything else. But the sea is neither round nor square, and that is because it does not appear before our eyes, and we do not see its true nature, which exists as the sea. According to a Buddhist parable, to a dragon fish, the sea looks like a majestic palace, and to a celestial being, the sea looks like shining jewelry. In other words, to our eyes, the sea appears to be round for the time being.
The same is true for everything that exists in the world. Everything that exists in the world exists in various forms whether they are sacred or secular, but we see and understand things only through the experiences we have learned and experienced. Therefore, in order to discern the true nature of everything in this world, we should know that there are not only what we can see, such as squares and circles, but also other aspects of the world, such as oceans existing as oceans, mountains existing as mountains, and so on, and that there are immeasurably more aspects in this world. This is not limited to our immediate surroundings. You should know that you and a drop of water are no different.
A fish swims in the water, but the water has no end; a bird flies around in the sky, but the sky has no end. Yet, neither fish nor birds have ever left the water or the sky. When they need to swim widely and fly widely, they swim widely and fly widely. And when they need to swim a little and fly a little, they swim a little and fly a little. In this way, each swims and flies without care, each swims and flies without limit, but if a bird leaves the sky, it will die immediately, and likewise, if a fish leaves the water, it will die immediately.
Understand that for a fish, water is as important as its life. Understand that for a bird, the sky is as important as its life. So, the bird is its life, and the fish is its life. Or the life must be the bird, and the life must be the fish. In this way, you should further develop your thinking. For example, there are practices and enlightenment, and there are death and life in humans—you should develop your thinking in this way.
However, if any bird or fish continues to swim or fly through the water and through the sky, after having mastered what water is and having mastered what the sky is, they will not be able to obtain the path they should take in the water or in the sky, nor will they be able to obtain the place where they should be. But if they gain this place to be, the truth will eventually appear in their righteous days. Likewise, if we obtain this path to walk, the truth will eventually appear in its righteous days. This path or this place, transcends concepts such as "big" and "small," as well as "self" and "others.” It also transcends concepts such as "past" and "present," which is why it exists in this way.
In this way, if one wants to follow the path of the Buddha and find the truth, one must face that teaching intensely when one obtains a teaching, and one must cultivate a practice intensely when one sees the practice. Therein lies the place to be and the path to follow, but the reason we cannot realize this when we are not yet aware of it, is that to realize it is to master the truth of the Buddha, and both of these are obtained at the same moment.
However, one should not make the mistake of thinking that what one gains in this way will always become one's knowledge and enable one to understand things correctly. It is true that the moment of enlightenment appears quickly, but the realization of having attained enlightenment does not necessarily appear, so why need it to appear as an actual feeling?
When Mayokuzan Hotetsu, a Zen master was fanning himself with a fan, a monk came to him and asked,
“The wind is always blowing, and it is blowing in all directions, regardless of where it is. But why do you use a fan to fan yourself even more?”
The master answered,
“You just know the wind is always blowing, but you don’t understand the true meaning of its blowing in all directions, regardless of where it is.”
The monk asked,
“Then, what’s the meaning of its blowing in all directions, regardless of where it is?”
But the master didn’t answer him, and he just fanned himself with the fan.
As soon as the monk saw it, he realized the true meaning and bowed deeply in the master’s direction.
The manifestation of the Buddha's truth and the process of its proper conveying are like this. If the wind is always blowing, don't use a fan. Also, those who say that they can feel the wind without using a fan don’t understand the meaning of the constant blowing of the wind, nor do they understand the true nature of the wind at all. Because the essence of wind is always blowing through, the wind of the truth that Buddha preached makes this earth glow golden and the great rivers ripen like cheese.
⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos
Embora todos os seres que nos cercam sejam guiados pela verdade de Buda, na verdade há confusão, iluminação, uma variedade de práticas para alcançar a iluminação, o nascimento e a morte. E embora existam pessoas iluminadas, existem pessoas que ainda não conseguem se livrar da confusão.
No entanto, no momento em que estivermos livres de todas essas coisas neste mundo, não haverá mais confusão e iluminação, então não haverá mais pessoas iluminadas e pessoas que ainda não podem se livrar da confusão, nem nascimento e morte.
Dito isto, no entanto, como os princípios de Buda estão além de conceitos relativos, como grandeza ou pequenez de objetos e existência ou não existência de coisas, existem nascimento, morte, confusão, iluminação, pessoas iluminadas e pessoas que ainda não conseguem se livrar da confusão. No entanto, em tal realidade, as flores caem, sendo perdidas, e as ervas daninhas se espalham, sendo culpadas.
Julgar todos os seres neste mundo a partir de suas perspectivas levará à confusão. E julgar a si mesmo da perspectiva de todos os seres deste mundo levará à iluminação. Além disso, aqueles que entendem o que é confusão podem alcançar a iluminação, e aqueles que estão confusos sem entender o que é iluminação são a maioria das pessoas que vivem neste mundo. Alguns podem obter mais iluminação depois de alcançar a iluminação e outros continuam a ficar mais confusos em sua confusão.
Pessoas iluminadas não estão cientes de que são iluminadas no exato momento de sua iluminação. Mas é exatamente assim que as pessoas iluminadas são, e é por isso que elas continuam a viver suas vidas retas, inalteradas, mesmo depois de atingirem a iluminação.
Quando você foca sua mente e corpo em uma forma, e quando você foca seu corpo e mente em um som, você pode ter a ilusão de ter discernido tudo, mas não é como ver uma imagem refletida em um espelho ou a lua na água. Se você tentar julgar as coisas por um lado, perderá de vista o outro lado que não está aparecendo ali.
Buscar a verdade do Buda é buscar a si mesmo. Buscar a si mesmo é esquecer-se de si mesmo. Esquecer-se de si mesmo é entregar-se a todos os seres do mundo. Entregar-se a todos os seres do mundo significa estar livre do conceito de “eu” e dos “outros”. Então, depois de atingir a iluminação, ele ou ela apaga sua consciência dessa iluminação, ou seja, deve apagar sua consciência de que alcançou a iluminação e, então, continuar a viver em um estado perpétuo de iluminação.
Quando alguém procura pela verdade pela primeira vez, está vagando longe da verdade. No entanto, no momento em que a verdade é transmitida corretamente, a pessoa encontra a verdade dentro de si.
Quando uma pessoa viaja em um barco e olha para a praia, ela pode ter a ilusão de que a praia está se movendo. No entanto, se a pessoa olhar atentamente para o barco, ela perceberá que o barco está realmente se movendo, não a costa. Se você tentar discernir a existência de todos os seres do mundo sem reconhecer adequadamente sua própria existência, cairá na ilusão de que sua própria existência é eterna e imutável. No entanto, se você levar uma vida justa e retornar à sua essência, perceberá que sua própria existência, como todos os seres deste mundo, não é eterna e imutável.
Lenha queima em cinzas. Mas as cinzas não voltam para a lenha. Tenha em mente essa premissa básica e não veja as cinzas como algo que vem depois e a lenha como algo que vem antes. Você deve entender isso. A lenha existe como lenha. E a madeira certamente tem uma forma antes de se tornar lenha e uma forma depois de se tornar lenha. No entanto, eles não são os mesmos, e cada um existe como uma substância diferente. As cinzas também existem como cinzas e, assim como a madeira, existem como substâncias diferentes, algumas mudando antes de se tornarem cinzas e outras mudando depois de se tornarem cinzas.
Assim, assim como a lenha não volta a ser lenha depois de queimada até as cinzas, os seres humanos não voltam à vida depois que morrem. A premissa básica da verdade do Buda não é dizer que a "vida" se transformou em "morte". Isso é chamado de "não-surgimento". E é a premissa básica da verdade do Buda que a "morte" nunca se transforma em "vida". Portanto, é chamado de "imortalidade". "Vida" faz parte da vida, e "morte" também faz parte da vida. Por exemplo, é como o inverno e a primavera. Assim como não pensamos que aquilo que o inverno se transformou em primavera, não dizemos que o que a primavera se transformou em verão.
A obtenção da iluminação por um ser humano é como o reflexo da lua na água. A lua não é molhada pela água e a água não é quebrada pela lua. E o brilho da lua se reflete até mesmo em uma pequena superfície de água, embora seja uma luz ampla e grande. Em outras palavras, tudo sobre a lua se reflete no orvalho na grama, incluindo o macrocosmo e até mesmo em uma gota d'água. E essa iluminação não deixa rastros em uma pessoa, assim como a lua não perfura a água. E que alguém pode atingir a iluminação sem ser impedido por nada é como uma gota de orvalho refletindo a lua celestial sem impedimento por qualquer coisa.
As palavras "profundo" e "raso" também são expressões de graus "altos" e "baixos" de alguma coisa. E assim como há aqueles que frequentemente mencionam o "longo" ou "curto" período de tempo em que alguém praticou o budismo, há aqueles que podem questionar o "tamanho" ou "pequenez" da água na qual a lua se reflete. No entanto, devemos entender corretamente se existe uma diferença entre o "tamanho" e a "pequenez" da própria lua refletida naquela água.
Às vezes temos a ilusão de que nossos corpos e mentes já estão cheios da verdade, quando não estão. No entanto, quando nosso corpo e nossa mente estiverem cheios da verdade, perceberemos naturalmente que algo está faltando. Por exemplo, quando você entra em um barco e rema em direção ao mar, onde não consegue ver nenhuma terra, e olha ao seu redor, o mar apenas parece girar e girar, mas você não consegue ver mais nada. Mas o mar não é redondo nem quadrado, e isso porque não aparece diante de nossos olhos e não vemos sua verdadeira natureza, que existe como o mar. De acordo com uma parábola budista, para um peixe dragão, o mar parece um palácio majestoso, e para um ser celestial, o mar parece uma joia brilhante. Ou seja, aos nossos olhos, o mar parece redondo por enquanto.
O mesmo vale para tudo o que existe no mundo. Tudo o que existe no mundo existe em várias formas, sejam sagradas ou seculares, mas vemos e entendemos as coisas apenas por meio das experiências que aprendemos e vivenciamos. Portanto, para discernir a verdadeira natureza de tudo neste mundo, devemos saber que não existem apenas o que podemos ver, como quadrados e círculos, mas também outros aspectos do mundo, como oceanos existindo como oceanos, montanhas existindo como montanhas, e assim por diante, e que existem imensuravelmente mais aspectos neste mundo. Isso não se limita ao nosso entorno imediato. Você deve saber que você e uma gota de água não são diferentes.
Um peixe nada na água, mas a água não tem fim; um pássaro voa no céu, mas o céu não tem fim. No entanto, nem peixes nem pássaros jamais deixaram a água ou o céu. Quando precisam nadar e voar amplamente, nadam e voam amplamente. E quando precisam nadar um pouco e voar um pouco, nadam um pouco e voam um pouco. Desta forma, cada um nada e voa sem cuidado, cada um nada e voa sem limites, mas se um pássaro sair do céu, morrerá imediatamente, e da mesma forma, se um peixe sair da água, morrerá imediatamente.
Entenda que para um peixe a água é tão importante quanto a sua vida. Entenda que para um pássaro o céu é tão importante quanto sua vida. Assim, o pássaro é sua vida e o peixe é sua vida. Ou a vida deve ser o pássaro e a vida deve ser o peixe. Desta forma, você deve desenvolver ainda mais o seu pensamento. Por exemplo, há práticas e iluminação, e há morte e vida nos humanos — você deve desenvolver seu pensamento dessa maneira.
Porém, se algum pássaro ou peixe continuar a nadar ou voar pela água e pelo céu, depois de ter dominado o que é a água e dominado o que é o céu, não conseguirá obter o caminho que deveria tomar na água ou no céu, nem conseguirão obter o lugar onde deveriam estar. Mas se eles ganharem esse lugar para estar, a verdade acabará aparecendo em seus dias de retidão. Da mesma forma, se conseguirmos trilhar esse caminho, a verdade acabará aparecendo em seus dias justos. Este caminho ou este lugar transcende conceitos como "grande" e "pequeno", bem como "eu" e "outros". Também transcende conceitos como "passado" e "presente", e é por isso que existe dessa maneira.
Desta forma, se alguém deseja seguir o caminho do Buda e encontrar a verdade, deve enfrentar esse ensinamento intensamente quando obtém um ensinamento, e deve cultivar uma prática intensamente quando vê a prática. Aí está o lugar a ser e o caminho a seguir, mas a razão pela qual não podemos perceber isso quando ainda não estamos conscientes disso, é que perceber isso é dominar a verdade do Buda, e ambos são obtidos no mesmo momento.
No entanto, não se deve cometer o erro de pensar que o que se ganha dessa maneira sempre se tornará seu conhecimento e o capacitará a entender as coisas corretamente. É verdade que o momento da iluminação aparece rapidamente, mas a percepção de ter atingido a iluminação não aparece necessariamente, então por que precisa que apareça como um sentimento real?
Quando Mayokuzan Hotetsu, um mestre zen estava se abanando com um leque, um monge veio até ele e perguntou:
“O vento está sempre soprando e sopra em todas as direções, independentemente de onde esteja. Mas por que você usa um leque para se abanar ainda mais?”
O mestre respondeu:
“Você apenas sabe que o vento está sempre soprando, mas não entende o verdadeiro significado de ele soprar em todas as direções, independentemente de onde esteja.”
O monge perguntou:
“Então, qual é o significado de soprar em todas as direções, independentemente de onde esteja?”
Mas o mestre não respondeu e ele apenas se abanou com o leque.
Assim que o monge viu, percebeu o verdadeiro significado e curvou-se profundamente na direção do mestre.
A manifestação da verdade do Buda e o processo de sua transmissão adequada são assim. Se o vento estiver sempre soprando, não use ventilador. Além disso, aqueles que dizem que podem sentir o vento sem usar um ventilador não entendem o significado do sopro constante do vento, nem entendem a verdadeira natureza do vento. Porque a essência do vento está sempre soprando, o vento da verdade que Buda pregou faz esta terra brilhar em ouro e os grandes rios amadurecem como queijo.
[追記]
「現成公案」は、大著『正法眼蔵』の華々しき巻頭を飾る名著だ。これが書かれたのは道元が中国から帰国してまだ間もない1233年、道元33歳の中秋のことだった。したがってこの「現成公案」には、若き道元の溌剌とした思索がほとばしっている。
しかしこの『正法眼蔵』という大著は、古来、難解なるものの最たるものとして語り継がれてきた。そして、これまで先人たちが行ってきた数多くの現代語訳もまた、どれもみな難解な『正法眼蔵』に相応しい極めて難解な現代語訳ばかりだった。そこで、今この現代を生きている我々にも読める「現代」の現代語訳を目指した。
まず、訳すにあたって心がけたのは、可能な限り極力、仏教用語を使わないこと。先人たちが行った数多くの現代語訳は、それを読む者はすでに仏教用語を熟知しているといった立ち位置で訳されている。これがまず現代語訳を難解にし、現代語訳でありながら現代人が「読めない」理由の一つとなってる。しかし幸いにも、僕は仏教思想に精通していない。だから僕は先人たちのように、言葉の背景にある広大な仏教思想をその言葉に織り込み訳すというスタイルをとらなかった。たとえば「水」という言葉を訳す時は、「酸素とともに、この地球上に生存しているひとつの生命体としての我々人間の生命の維持に必要不可欠で極めて重要な、元素記号H₂oの水素と酸素の化合物の無色透明の液体である水」などとは訳さないで、単純にただ「水」と訳すことを心がけた。
つぎに、道元も所詮ひとりの人間として間違える、ということを念頭におき訳した。だから僕は『正法眼蔵』を、キリスト教の『聖書』のように、一言一句がみな神聖なる言葉で、一言一句がすべて正しいなどと思わないで訳すことにつとめた。ひとりの僧がいくら偉大であったとしても、長大な著述を一言一句まったく間違えず、すべて正しく著述しつくすなどといったことは現実的に不可能だ。
それに残念なことに、この「現成公案」の道元直筆の原本は残っていない。したがって、後世の誰かが書写し、それをまた別の誰かが書写し、今日まで伝わったのだ。この「書写」という作業は実にあやふやなもので、書写する際に誤写することもあっただろうし、またその書写する人の意思で別の言葉に書き換えられたりした可能性もある。ようするに大なり小なり、どこかに間違いが潜んでいるのかもしれない。そしてその間違いを間違いだと思わず、そこにきっと何か深い意味が込められているに違いないなどと思い込み、いたずらに深読みしすぎることが、またこの『正法眼蔵』を難解にしてしまう可能性も少なからずあるんじゃないか?と思った。
そして、この「現成公案」は、かなり美文で書かれている。それがまたこれを難解にしている。自分の思いを確実に誰かに伝えるのなら、誰にでも分かりやすい文体で書きあらわすべきだ。しかし道元があえてそうしなかったのは、高級貴族の出身である彼の生まれ持ったインテリ性だろう。とりあえず、美的表現を目指すあまりやたらと出て来る、時としてかなり無理な対句やレトリックは、かえって彼が本当に伝えたかったことを伝えきれなくしている可能性もある。
とは言うものの、僕がこの現代語訳を行うにあたって最も重要視したのは、原文に忠実であることだった。それが、これまで行われてきた多くの現代語訳に欠けていたことだ。これまで多くの高名な僧侶や博学な学者たちが現代語訳を行ってきたが、彼らは、彼ら自身が持っている道元に関するその豊富な知識をもとに様々な解釈を行い、そこに込められているだろうと思われる思想を自由に飛躍させながら現代語訳を行ってきた。その結果として多くの場合、明らかに道元が書いた原文とはかけ離れた内容の現代語訳になっていた。
僕は高名な僧侶でもなく、博学な学者でもない。したがって僕は、道元の「思想」を伝える立場にはない。だから僕は「思想」ではなく、道元の「言葉」を伝えることに終始した。そもそも「思想」は、「言葉」を読んだ読者自身が感じ取ればいいことだ。と僕は個人的にそう思っている。
とにかく僕はこの「現成公案」を、偉大なる思想書としてではなく、ひとつの文学作品として訳した。しかしだ。この若き道元の書き残した「現成公案」を、ただ単純に字義通りに読んでみると、全編にわたり繰り返し繰り返し、彼がとてもシンプルなことを伝えようとしていたことが分かる。そしてそれは、実は彼が生涯持ち続けることになる重要なテーマだったのだ。
⬜︎ English translation
Genjokoan that adorned the beginning of Shobogenzo, the True Dhama-eye Treasury Volume, a masterpiece was a great book written by Dogen. It was written in 1233, shortly after Dogen's returned from China, in the autumn of his 33rd year. Therefore, this "Genjokoan" is filled with youthful Dogen's vigorous contemplation.
However, this masterpiece called Shobogenzo has been passed down since ancient times. And the numerous modern translations that have been done by our predecessors have also been extremely difficult ones that are appropriate for the difficult "Shobogenzo.” So, I aimed to create a "modern" translation into contemporary language that can be read by those of us living in the modern age.
First of all, in translating the text, I tried to avoid using Buddhist terminology as much as possible. Many modern translations by our predecessors have been done from the standpoint that the reader is already familiar with Buddhist terminology. This is one of the reasons why the modern translations are difficult to understand and "unreadable" even though they are modern translations.
Next, I translated it with the understanding that Dogen made mistakes as a human being after all. Therefore, I tried to translate "Shobogenzo", as if it were not the Christian "Bible," without thinking that every word of the book is sacred and every word is correct. No matter how great a monk may be, it is practically impossible for him to write a long work without making a single mistake word for word, and to do so correctly.
In addition, unfortunately, the original manuscript of the "Genjokoan" in Dogen's own hand has not survived. Therefore, someone in later generations copied it, and someone else copied it again, and it has been handed down to the present day. The process of "transcribing" is very inaccurate, and it is possible that some of the words were transcribed incorrectly, or that some of them were replaced with other words by the transcriber. In short, there may be mistakes in some parts of the text to some extent. And if we do not consider these mistakes to be mistakes, and instead assume that there must be some deep meaning in them, and read too much into them, there are not a few possibilities that this "Shobogenzo" will become more difficult to understand. That’s what I thought.
And the "Genjokoan" is written in quite a beautiful style. This also makes it difficult to understand it. If you want to convey your thoughts to someone without fail, you should write in a style that is easy for anyone to understand. However, Dogen did not dare to do so, probably because of his intellectual nature as a native of a high-class aristocratic family. Anyway, the quite forced couplets and rhetoric that often appear so much in the pursuit of aesthetic expression may make it impossible to convey what he really wanted to convey.
However, the most important aspect of my translation I focused on was to be faithful to the original text. This is something that has been lacking in many of the modern translations that have been done. Many famous monks and erudite scholars have translated the text into modern Japanese, but they have done so while making various interpretations based on their own abundant knowledge of Dogen and freely making leaps in the ideas they thought might be contained in the text. The result in many cases was a modern translation that was obviously far from the original text written by Dogen.
However, fortunately, I am not familiar with Dogen's thought. Therefore, unlike our predecessors, I did not search for the vast thought behind the words, weave it into the words and translate them. For example, when I translated the word "water," I tried to translate it simply as "water," not as "water, a colorless liquid compound of hydrogen and oxygen with the element symbol H₂O, which, along with oxygen, is essential and extremely important for sustaining our life as a living organism on this earth.
I am neither a famous monk nor an erudite scholar. So, I am not in a position to convey Dogen's "thought.” Therefore, I simply tried to convey Dogen's "words" rather than Dogen's "thought.” However, when I simply translated the young Dogen's "Genjokoan," as he wrote it, I could see he was trying to convey very simple things over and over again throughout the entire book. And in fact, it was an important theme that he kept carrying with him throughout his life.
⬜︎ Portuguese translation by José Carlos Ramos
Genjokoan que adornava o início de Shobogenzo, o Volume do Tesouro do Verdadeiro Dhama-eye, uma obra-prima foi um grande livro escrito por Dogen. Foi escrito em 1233, logo após o retorno de Dogen da China, no outono de seu 33º ano. Portanto, este "Genjokoan" é preenchido com a contemplação vigorosa do jovem Dogen.
No entanto, esta obra-prima chamada Shobogenzo foi transmitida desde os tempos antigos. E as numerosas traduções modernas que foram feitas por nossos predecessores também foram extremamente difíceis e apropriadas para o difícil "Shobogenzo". Assim, pretendi criar uma tradução "moderna" para uma linguagem contemporânea que pudesse ser lida por aqueles de nós que vivem na era moderna.
Em primeiro lugar, ao traduzir o texto, tentei evitar ao máximo o uso da terminologia budista. Muitas traduções modernas feitas por nossos predecessores foram feitas do ponto de vista de que o leitor já está familiarizado com a terminologia budista. Esta é uma das razões pelas quais as traduções modernas são difíceis de entender e "ilegíveis", embora sejam traduções modernas.
Em seguida, traduzi com o entendimento de que Dogen cometeu erros como ser humano, afinal. Portanto, tentei traduzir "Shobogenzo", como se não fosse a "Bíblia" cristã, sem pensar que cada palavra do livro é sagrada e cada palavra é correta. Não importa quão grande seja um monge, é praticamente impossível para ele escrever uma longa obra sem cometer um único erro palavra por palavra, e fazê-lo corretamente.
Além disso, infelizmente, o manuscrito original do "Genjokoan" escrito pelo próprio Dogen não sobreviveu. Portanto, alguém nas gerações posteriores o copiou, e alguém o copiou novamente, e foi transmitido até os dias atuais. O processo de "transcrever" é muito impreciso, e é possível que algumas das palavras tenham sido transcritas incorretamente ou que algumas delas tenham sido substituídas por outras palavras pelo transcritor. Em suma, pode haver erros em algumas partes do texto até certo ponto. E se não considerarmos esses erros como erros e, em vez disso, presumirmos que deve haver algum significado profundo neles e lermos muito neles, não há poucas possibilidades de que esse "Shobogenzo" se torne mais difícil de entender. Isso foi o que eu pensei.
E o "Genjokoan" está escrito em um estilo bastante bonito. Isso também dificulta a compreensão. Se você deseja transmitir seus pensamentos a alguém sem falta, deve escrever em um estilo que seja fácil para qualquer pessoa entender. No entanto, Dogen não se atreveu a fazê-lo, provavelmente por causa de sua natureza intelectual como nativo de uma família aristocrática de alta classe. De qualquer forma, os dísticos e a retórica bastante forçados que tantas vezes aparecem tanto na busca da expressão estética podem impossibilitar a transmissão do que ele realmente queria transmitir.
No entanto, o aspecto mais importante da minha tradução em que foquei foi ser fiel ao texto original. Isso é algo que tem faltado em muitas das traduções modernas que foram feitas. Muitos monges famosos e estudiosos eruditos traduziram o texto para o japonês moderno, mas o fizeram fazendo várias interpretações com base em seu próprio conhecimento abundante de Dogen e dando saltos livres nas ideias que pensaram que poderiam estar contidas no texto. O resultado, em muitos casos, foi uma tradução moderna obviamente distante do texto original escrito por Dogen.
No entanto, felizmente, não estou familiarizado com o pensamento de Dogen. Portanto, ao contrário de nossos predecessores, não procurei o vasto pensamento por trás das palavras, não o entrelacei nas palavras e as traduzi. Por exemplo, quando traduzi a palavra "água", tentei traduzi-la simplesmente como "água", não como "água, um composto líquido incolor de hidrogênio e oxigênio com o símbolo do elemento H₂O, que, junto com o oxigênio, é essencial e extremamente importante para sustentar nossa vida como um organismo vivo nesta terra.
Não sou um monge famoso nem um estudioso erudito. Portanto, não estou em posição de transmitir o "pensamento" de Dogen. Portanto, eu simplesmente tentei transmitir as “palavras” de Dogen em vez do “pensamento” de Dogen. No entanto, quando simplesmente traduzi o "Genjokoan" do jovem Dogen, como ele o escreveu, pude ver que ele estava tentando transmitir coisas muito simples repetidas vezes ao longo de todo o livro. E, de fato, foi um tema importante que ele carregou consigo ao longo de sua vida.